船頭多くして、船、山を上る

2005年 12月 22日


 霊媒は、いわば霊界の受付け。受付係はにこやかに応対するが……そのにこやかさは霊界の意を表わすとは限らない。むろん、私も商売人ではないので誠意を尽す努力をしているし、何よりも顔に出やすいので困る。つまり少なくとも、皆の応対をしているときの私は、希望を抱いて相談に応じている。

 ところが家に帰ると……または時期が来て……背後の霊達から打ち明け話を聞かされて呆然とすることがある。

『自業自得なんだよ!!』…… (おい、おい……)

・・・・・・

 以前、霊査で『背後の掃除が進んできました』……と、伝えたところ、「えぇ~未だに!」と絶句されたことがある。私は別にこれを恨んでいるわけではないが、今月のオフ会で一つ明らかになったことがある。

かの実家は、人並み外れてお祀りしている対象が多いのだ。

 招かれざる客は、追い出すのに道理がある。だが、招かれた客は気に入らなくとも第三者(霊媒)には追い出す道理がない。…… 無理に追い出す道理がなければ、整理するのにも時間がかかる。

 悪縁は断ちがたく、良縁は結び難い――僅かな失礼で大切な人との繋がりは容易に失われ、努力をしても迷惑な人との繋がりは断ちがたいのが現実なのである。だから、良縁を結ぶのに時機を失してはいけないし、悪縁を絶ちきるのにも時機を失してはいけない。

・・・・・・

 以後は、二つの視点に沿って話を進めたい。

 まず第一はこの問題の表面的側面だ。

 船頭多くして船山に上る 

 以前、みだりに神仏に祈る人と話したことがある。私は「船頭多くして船山を上る」という言葉を用いて、その害を説いたが、「神仏といわれるような高い人格をもった人なら、上で調整して良く計らってくれるはずだ」……たしかに。あなたにその価値があるなら。等と言えるはずもなく、私は絶句した。

 すべての問題はそこに行き着く。もしも人徳の備わった人であるなら、救いを求める必要もないのである。あちこちに救いを求めなければならぬ人は、つまり、その程度の人徳の持ち主なのだ。それを自覚し、人徳を磨いてこそ救いがあるのに、足りなければますます多くの神仏を拝むという悪循環を選ぶ人が多い。

 だが冷静に考えれば解るはずだ。……世間の組織では、多数の部門があろうとも受付は一つに絞るのである。仮に各部門毎に受付を持てば、悩める人々はたらい回しにされてしまう。まして、部門一つに複数の受付があれば、一つの相談を複数の相談と誤解して無駄な動きが多くなるだろう。

 相談者はなぜあちこちに相談を持ちかけるのか? 自分の問題を解決して貰うのに、なぜにわざわざ、助けようとする人((高級霊)の面倒を増やそうとするのか? それを称して「業が深い」という。業は自ら解決すべきが宿命なのだ。つまり、自ら拗らせることで、他者が助けようとすることを拒んでいるのである。

 神かまうな、仏ほっとけ

 霊感が強く、なおかつ、先達の指導を受けたことのない人が往々陥る誤りに、神社仏閣、それどころか、あちこちの小さな祠を拝んで回るというものがある。なるほどそれら霊域は高級霊と繋がりやすい。だが、地上に降りてくる高級霊の廻りには、低級霊が群がり集まる。

 たとえ霊域を訪ねたところで、自分の霊格が、高級霊よりもむしろ低級霊に結びつきやすいのであれば、益よりも害が大きいのである。

 さてそこで、もう一つ考えて貰いたい。誰かに心酔すれば……その人のことで心が一杯になるだろう。ではあれこれと好みが分散するのは何を意味するのか。……心酔する相手がいないということだ。つまり、ただ一人の師とも仰ぐべき高級霊を見出した人なら、他を探す必要もなく、見出せない人はあれこれと手を出すのである。

 つまり霊域を訪ねて、高級霊と感応せず、信頼すべき霊と結びつかぬからあちこちの霊域を訪ねるのだ。…… これは悪循環である。

 昔から、霊感の強い人々は、「神かまうな、仏ほっとけ」と、みだりに神仏を拝むことを戒めてきた。…… むろん、霊感が強いということは一般人よりも霊的な影響を受けやすいということである。であるから、一般の人よりも遙かに激しく結果が表われやすいが、所詮は大なり小なりだ。つまり、みだりに拝むことは害が多いのである。

 ここでさらに突き詰めると、もっと現実的な問題に突き当たる。

自らが救われることを信じていないのである。

 見下した態度

 人の数だけ、表現の方法には違いがあるだろうが、「見下した」と思われる態度の中に、「十分な説明がない」つまり、「説明の手抜き」を上げることが出来るだろう。とりあえず説明をするが、だが、解決を期待していないから、説明を端折ってしまうのだろう。

 だが、端折られた説明で何が出来るのか? そもそも、端折った説明から推測するのに、相談者は、己の悩みを正しく把握していると考えるのだろうか?

……人が神仏を選ぶとは、神仏を見下してはいないか。自分の迷いを整理することなく、ただ、信仰対象を選ぶことで責任を転嫁していないか。

 私は感じる。正しく尊崇に値するものを見出せば、人は迷うことがない。と。


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