お手配
2005年 09月 08日
「何で抱え込んでしまうのだろう?」 ……について、「自分に思い当たるところがある。(同じものが)三本も掲載されているのは、守護霊から良く読め、とのメッセージなのだろうと思う」という内容のメールを頂いた。……私はそれを、否定も肯定もできない。
楽屋裏をちょっと明かすと、昨日は都合で帰宅が遅くなり、しかも、帰宅後、映画(ポストマン)を見ていて更新が遅れ、サーバーが混雑していたのか、アップロードエラーが何度か出ても無視して更新したものが、私がPCの電源を切った後に復帰したものらしい。つまり三本掲載されたのは事故である。もっとも、夜遅くなったのにも関わらず、寝る前に更新をやっつけようとしたのは、やはり背後達からの強い勧めがあってのこともある。
だから、三本載っているから重要なのだ、というのは肯定できないけれど、アクシデントを乗り越えても更新した、という点では重要さを肯定できる。……もっともそれは、私の立場からの見解であり、むろん、管理人としての私の立場を反映すれば、一つを除いてすみやかに削除することとなる。……若干遅れたのは、単にデーターベース管理上の都合から、単純削除よりも上書きすることを選んだだけのことだ。
心霊思想に関心を持つ人ならば、大抵、自分自身に宛てた個人的な霊的メッセージを欲しがるのが普通だ。中には、過去の霊訓だけで充分であるなどと極論もあるようだが、その発想の大人げなさに危険な物を感じる。そもそも会話・交信というのは、自分一人の都合や要求だけで成立するものではない。こちらに用事が無くても先方に用事があるかも知れない。こちらは必要としなくても、相手が迷惑を受けて抗議しているのかも知れない。まして、こちらに用事があっても、相手は迷惑に思って拒絶されるかも知れないのである。自分の立場で不要というのは、傲慢としか思えない。
また傲慢に生きている人でも、困れば神頼みをする事もある…… プライドが邪魔をして人に頼むよりも神に頼む方を選ぶ人も案外心霊家には多い……だが、困ったときだけの神頼みというのは、ビギナーズラックに自惚れて、後に身を滅ぼすことを良く眼にする。普段からの付き合いを大切にしない人が往々陥る過ちである。その意味において、心霊を学ぶ人は、やはり私的なメッセージを欲しがるぐらいが健全で順当であると思える。むろん、依存するのは極端だ。
というわけで、当サイトの文章を自分宛のメッセージと受け止めるという動機は、決して不健全なものではない。ただ、「惜しい」と思えることがある。
やはり、テレビやマンガの影響が強いのか、霊的メッセージというのはちゃんと霊視できたり、霊聴できるものという偏見が多いのでは無かろうか? だが、メッセージを伝えるのには、必ずしも映像、音声を必要としない。
たとえば、何かを指させば、それで意味が通じることもある。……「その指が見えないのだ!」と思うなかれ。あなたの視線がそこに釘づけられたのならば、それは、霊達が指さしているのかも知れないのだ。
「これは自分のことを言っているのだ!」と思えたなら、それは、必要な箇所を示されたのとどう違うだろう? つまり自ら気がついたのか、自分を守護するものが手伝ってくれたのか、という違いでしかない。……やれやれ、手を引いて貰うだけで足りず、抱っこしてもらいたいと言うつもりだろうか?
たしかに、霊魂の実在証明や、第三者への主義・思想を変えさせるためには、その確たる証拠が必要かも知れない。だがそれは素人が手を出すにはあまりに危険だ。たとえば、心霊図書館で更新を重ねている浅野和三郎著「出廬」を読んでみて欲しい、浅野氏の失敗談に触れることが出来るだろう。
変に難しく考えるよりも、自分が必要とするべきものと出会えたことを素直に喜ぶべきではないだろうか。
心霊を学んで、ささやかな幸運に出会い、それを背後霊達からの「お手配」と素直に喜ぶ。私たちの仲間内では当たり前のことだ。