忠告は聞くべし!……?
努力は大切です!……?
2005年 06月 18日
私も師弟関係のしがらみで、非常にやりにくく思っているのですが、どうにも戦前の教育を受けた方々は、「努力」を神聖視しすぎていると感じます。
昔の常識では身体を鍛えるならウサギ跳び、女性が妊娠したらとにかく肥えさせようとする。ところが現代では、ウサギ跳びは逆効果といわれ、妊婦の肥満も否定されて、それぞれの現場ではその知識を実際に応用されているのに、心霊業界の世代交代はなかなか進まず……
むろん、私も努力の大切さを否定はしません。むしろ、痩せるために薬や電子機器を頼って、運動しないという考えには反対です。
確かに年長者の助言は尊重すべきですが、2500年前に生まれたお釈迦様も「何事も程々が大事」と教えている。孔子様やソクラテス様までそう教えている。ならば、努力第一主義の年長者様たちは、人類の大先達を軽んじてはいますまいか?
まして、悩める人に与えるべき何の知恵も持たぬ人も、「がんばれよ」とは言える。それでうまくいけばよし、うまくいかなければ、「きっとあいつの頑張り方が足りなかったんだろう。」と無責任を決め込める。……だが、うつ病の人に「がんばれ」といえば、相手をますます追い込んでしまう。
考えてみれば、ニートや、うつ病起因の自殺者の増大やらは、周囲の大人たちの安易かつ無責任に励まし方にあるのではなかろうか。その傍証に、どうも青年たちを見ていると、無駄に努力する子か、開き直っている子の両極端に見える。全く、世界の四大聖人を蔑ろにした人々が、人生の先輩を尊べというのだからやりにくい。
また、日本文化の悪いところは、物事を学ぶのに、勉強……「勉め強いる」事を当たり前と思うところですが、近年、とくにIT業界において、10代で起業した実業家たちが増えていますが、彼らは、自分の楽しみを事業の対象として成功をつかんでいます。「世界に誇る日本のマンガ文化」も、動機は楽しむ者が勝ち得たものです。つまり、今の日本は、強いられたものが衰退し、楽しむものが勃興しつつあるのです。この期に及んで、努力一辺倒、あげく、先輩は神と思えでは、迷える子羊を誤てる子羊に変えることしかできません。
これまた孔子様のいうとおり、
「之を知る者は、之を好む者に如かず 之を好む者は、之を樂しむ者に如かず 」……強いられるばかりで、楽しみ方を忘れた人間なんて、死人と同じです。いや、生きた肉体を持つだけ、死人よりも始末に負えません。まあ、努力しすぎで破滅する人よりも、楽しみすぎて身を持ち崩す人の方が遙かに多いのだけれど……
いずれにせよ、智慧と工夫の欠いた努力は往々無駄になりがちですし、だからといって努力をせずに智慧や工夫、そしてむろん霊感に頼るだけでは何事も成せないのが現実の姿です。
忠告は聞くべし!……?
2005年 06月 19日
一般的な倫理観念でいえば、他人、特に目上の忠告には素直に従うべきとなるでしょう。もっとも常識という名の束縛を嫌って、わざわざそれに逆らう人もいるわけですが、従うか、従わぬかは、世間の良識云々、または自分の好き嫌いを基準とせず、その内容如何とすべきです。何となれば、多くの人々は自分の好都合を善と呼び、不都合を悪と呼ぶのですから、目上だからといって無条件に従えば、結局利用されて終わります。
といって、従わなければ往々、後悔を生むわけですが、霊性向上の修行の場である人生に於いて、一番つまらぬ収穫物がこの「後悔」です。……後悔が深ければこそ、チャレンジに臆病になり、また自信を失って他人の助言に頼るようになる。…… 主体性を失った人生は一体誰の修行の場になるのでしょう?
先に結論を掲げればこそ、見えるものがあります。忠告を受けることが後悔の伏線であるのは正しいあり方ではありません。
たしかに忠告は有難い……その言葉通り、忠心からの言葉であるなら。しかし、そもそも人は、一人一人の人生を歩んでいるのです。忠告は助言であって命令ではないし、忠告を主体に生きることも出来ません。つまり、人は自ら考え、選び、そして決めねばならないのです。それこそが自分の人生を生きると言うことです。
でも、忠告を聞かずに後悔する……それは、知恵がついたのではなく、臆病になっただけのことです。
人の指図に従うことが正しい道ではありません。善悪を見抜き、良いものを取入れ、悪いものを退けることこそが、人生に於いて大切なことです。
忠告を聞かなかったことが悪いのではなく、忠告された内容を理解できなかったことこそが悪いのです。善悪の区別がつかぬのであれば、例え忠告に従っても、偽善者に、または慢心の未熟者や知ったかぶる者に騙されるかも知れないのですから。
困って始めて見えるもの。
2005年 06月 19日
忠告を聞かずに失敗して……その後。
「だからいったじゃないか!」で終わる人と、「全く、仕方がないんだから!」といってそれでもなお助けてくれようとする人がいる。
ここに真に忠告なのか、ただ、責任回避の偽善なのかが表われます。
・・・・・・・
これは当然、自分が忠告者を持つか、という判断にも役立ちますし、自分が果たして真の忠告者であろうかという判断にも役立ちます。
そして、自分が真の忠告者である努力をしていなければ…… そもそも人間の縁というものは複雑怪奇でなかなかその真相を見極めることは出来ませんが……真の忠告は理解するのは難しいでしょうし、真の忠告者を得ることも難しいでしょう。
縁は複雑怪奇
2005年 06月 21日
「困って始めて見えるもの。」において、「人間の縁というものは複雑怪奇」と書いたら、背後から「安易」との指摘を受けた。……当人的には思案の結果なので、それこそ、私の思いつく最適な答として、「正しい霊感無くしては”見え”ない」と書きたいところであった。
「因果律」や「因縁果」など、人はその行いの報いを受けるという説は、東西古今の聖人等が教えるところである。しかし、人生には限りがある。悪事の報いを受ける前に死ぬ人もいる。善事の報酬を得る前に死ぬ人もいる。その帳尻は死後か、来世で受け取ることが出来る……(本当か?)……本当かどうか、あやしいと思う人もいるだろう。そう、だからこそ、死後の個性存続を知るだけでは足りず、強く、強く信じる必要があるのだ。
はっ! そこに嘘はないだろう。だが、そこには何か隠したいものがある。――まあ、隠したいものを暴くのは下品でもあろう。
取り敢えず、表向きの話題だけでお茶を濁そう。人生は、この世の努力・行為・実績だけは決まらない。見えざる部分があまりに大きいから、「複雑怪奇」というしかないのだ。――複雑怪奇というしかないが、それを見極める手もある。
大切なのは素直になることだ。誰かにつけられた付箋、注意書き、裏書き、紹介状……そういう不可物をすべて無視して見ればいい。すべては真実に回帰するのである。