不平不満が苦痛を招く
2005年 03月 24日
愚痴
口が動くか、体が動くか――不平不満が口を衝くのは、行動が思う結果をもたらさぬからです。
愚痴は三度まで――物事には時機があり、時機が外れると努力しても結果をもたらさぬものです。その時機を待つ間、テンションを落さずにするためには、愚痴の一つや二つはむしろ結構なことです。諦めて投出すよりはよほど宜しい。
ただ、行動を諦めてただ愚痴を言うだけならば、それこそが無駄、行動を諦めるなら愚痴を言うのも諦めるのが筋というものです。でなければ負犬癖が付いて、周囲の信望も失います。
時機を窺うための愚痴であること……ただ愚痴をこぼすのでなく、打開策を模索する視点を決して失わぬようにすべきことが大切です。
不平不満
不平不満の多い人を、迷惑がり、嫌う人はとても多いものです。しかし、迷惑に思われるのならばまだ愛情が残っているとも言えます。そもそも、行動が思う結果をもたらす人なら、不平不満などをいう閑がありません。むしろ、自分の中に沸上がる不平不満を次の行動に繋げていくことでしょう。
失敗は成功の母、等と申しますが、その言葉を生かせる人は失敗の要因を分析し、成功の為の道筋を明らかに出来る人です。いわば、適切な計画力を持たなければ成功は掴めず、計画力を持たぬが故に失敗する人は、努力しようが、誰かを頼ろうが、また、不平不満で一時を過そうが、成功し得るはずがありません。
端的に言えば、不平不満の多い人とは、いかなる種類の成功からも縁の遠い人ということになります。
人に災難をもたらすのは、悪意よりも未熟さ、不運よりも要領の悪さなのです。
反省とは自らを省みることをいいます。失敗に不平不満をいうのをやめて、何が原因なのか、その克服のためには何が必要なのかを良く研究することが大切です。
反省下手
ところで反省がとても下手な種類の人がいます。私が見る限りにおいて、反省が下手な人は、分析力や企画力に劣っているのではなく、問題提起が下手であるようです。
単に計画に問題があるのであれば、多くの人はその原因を見いだせます。ところが人間には死角が備わっています。生理的な意味での死角の他に、精神的な意味での死角があることを常に心の片隅に置いておくべきでしょう。 つまり、人は見たくない者を見ないという習慣が身に付いているのです。 たとえば自己嫌悪気味の人は偽善的な善行に走り勝ちです。劣等感に悩む人は分不相応に手を出してしまいます。――この手の話は、実例を挙げだしたら切りがありません。それを要約するなら、自分を知らずに行動することの危険性ということです。
本来は、動機があり、目的があり、目的に沿った手段があって行動が生じるべきなのです。ところが、「無意識の自己防衛」が動機であるなら、目的も計画もすべては妄想に過ぎません。これでは適切な計画が立つはずもありません。――誰がどう考えてもうまく行くはずのない、不合理な行動計画を狂気の沙汰、等と表現しますが、個人の行動に関してみる限り、「プチ妄想」が社会に蔓延し、「ミニ狂気の沙汰」がそこかしこに見受けられるわけです。
社会の大勢を占めているから、自分はこれで良いのだ、等とは思わぬ事です。狂気の定義とは第三者に理解し得ないこと、だそうですが、「不合理」を推し進める人の心を、第三者がどう理解し得るというのでしょう? 狂気が蔓延する社会、という現実から目を背けるために、不合理な社会と呼ばれるだけのことなのです。――そして、不合理だからこそ行動に結果が伴わず、結果が伴わないから苦悩する……その連鎖の中でどうして人が幸せになれるというのでしょうか? 幸せになるどころか、周囲、特に自分を愛してくれる人ほど激しく不幸に押しやりながら、自分も益々不幸になっていく状態は、地獄としかいいようがありません。それも努力するほど苦しくなっていくのですから。
反省とは自らを省みることです。単に行動失敗の原因を取除くだけでなく、なぜ、失敗に向けた努力をしてしまったのか、そこまで含めて反省をすることが大切です。
正直、反省は辛い。人の失敗ならば笑い飛ばせても、自分の失敗は見たくないのが人情です。ましてや、自己嫌悪や劣等感(または過剰な自意識)を抱えているのなら、自分の失敗を見ることは死ぬよりも辛いことが多いでしょう。――しかし、失敗の原因が自分の中にあるなら、どれほど力のある、誰の助けを借りられるとしても、反省無くして幸せは掴めません。それはつまり、適切な反省ほど、自分を幸せにする効果が高いということでもあります。
悲観的な人
起らざる不運に苦しむ――悲観的であるというのは辛いものです。まだ起っていない災難を恐れ悩むというのですから。その状態から脱したくて、無理に楽観的に振舞おうとする人がいますが、多くの場合、かえって傷を深くするようです。そもそも、楽観とか悲観とか、人間の性質の違いはどうして生じるのでしょうか。
心霊的にいうなら、生前の気質の表れも大切な要因でしょうが、人間は学習し、順応する知性なのです。したがって、育った環境にこそ目を向けるべきでしょう。
将来の性質がどうであれ、思うままに生きられた人は必然的に楽観的になっていきます。反対に、多くの挫折を経験すれば、悲観的になるのは仕方がないというより適切な学習です。
ここで問題なのは、なぜ挫折するのか、ということです。悲観的だから挫折するのか――ならば、楽観的に行動することが解決となるでしょうが、挫折するから悲観的になったのなら、楽観的に行動することはさらなる挫折の原因となります。いえ、悲観的つまり消極的に行動してもなお挫折したのだとしたら、楽観的に行動することは挫折どころか悲劇の原因となるでしょう。
間違った努力は良い結果をもたらしません――悲観的であることを悩み、楽観的であろうと努力する人が陥る過ちは、真の問題、原因を取除くことなく、その結果だけを変えようとすることにあります。それこそ、木に竹を接ぐようなもの――摂理に反することは、長続きするはずもないのです。
悩むべきは、悲観的であることではなく、想いを実現する力の乏しいことです。さらにいえば、よからぬ動機にあおられて居ることなのです。――なぜ、苦しむために努力するのか。その原因に気がつけば幸せに手が届くことでしょう。
不幸の原因
不幸の原因を何所に求めるのか――他人の悪意か、己の不運か――しかし、過去の努力が今を作り、今の努力が明日を作っているのも摂理です。他人の悪意や、不運については事前に見抜くことはなるほど難しい。……でも、自らが生み出している不幸については、考察・工夫・努力で避けることが出来ます。
反省して見てください。――自分を幸せにするための努力をしていますか? そして、自分を不幸にしないように節制していますか?
あなた自身が、自分を幸せにする努力をさぼり、不幸の原因をまき散らしているなら、一体誰があなたを幸せに出来るのでしょう――いいえ、それ以前に、一体誰があなたを幸せにしようと努力してくれるというのでしょうか?
面倒を嫌うのも、不毛な努力を嫌うのも、人情であることをお忘れ無く。
痛みを選ぶ
幸せになるのを阻害しているのが自分自身であるなら、自分を変えずには幸せは掴めません。
神仏頼りでの開運も――大切なことを見落しています。自己改革には痛みが伴います。自ら行うのであれば痛みの調整も可能でしょうが、他委せでは痛みの調整など思いもよりません。まして、途中で逃出せば、痛み損、下手をすれば出血死が待っています。
行き詰り……誰がその道を選んだのでしょうか? 自分と共に破滅するか、自分と共に幸せを掴むか。
反省とは自分を虐めることではなく、自分と共に幸せになるための努力、その先ず第一歩なのです。反省に痛みが伴うにせよ、その痛みは報われる痛みです。報われる大痛を嫌って、報われぬ小痛を選ぶ……短期間の大痛より、永遠の小痛を選ぶことが果して幸せなのでしょうか?
自分を不幸にする人とは、不幸への選択をする人なのです。