運命・宿命
2005年 02月 06日
活かされている
心霊家として生き、人生を振り返ってみて思う。
私も人生の要所要所に、不思議な力の働きを感じる。それを人々は、宿命であるとか、運命であるとか、呼ぶのであろう。そのような体験からか、宿命を変えよう、運命を転じよう、と様々な工夫を凝らす人たちがいる。
その努力を、姑息――と呼ぶのは無慈悲に過ぎるかも知れない。だが、個人のための個人的な努力は、いわゆる独り善がりと呼ぶべきものだ。自分のための努力であればこそ、人は必死に打ち込み、必死の余りに周囲が見えなくなる。……周囲が見えないのにひたすら突っ走ろうとするから、自分を傷つけ、周囲を傷つけ、傷つけ合うことに傷つき、孤立していく自分に傷つき、傷ついている自分に傷つく。
人は誰も善良に生きたいと考える。だが、善良に生きようとして、自分も周囲も傷つくのだとしたら、果たして自分は善良であるのだろうか……と思い悩み、苦悩が重なり、あげく死を決意する人もいる。善良に生きようとして、善良に生きられぬからといって、死を選ぶなんて、何と善良で無思慮な人々だろう!? 世の中、むしゃくしゃするからといって子供を殺す大人もいるというのに、自ら死を選ぶ人もいるのだ……なんとこの世の仕組みは、無慈悲にもすれ違いが重なるのか。
善良であるためにも智慧がいるのである。いや、他人に善良さを認めさせるために智慧が必要なのである。……ただ、善良であるだけで満足できず、周囲に善良と認めさせるために努力し、その努力で周囲を傷つけているのだから。
苦しむために努力するのは止めるべきだ。
運命の好転術など、私は知らない。だが、こうは思う。自分の善良さが、独善に偏らず、より普遍に近づくように努力しているなら、私が願わなくても周囲が幸せを願ってくれると……少なくとも、神仏・祖霊・守護霊が守ってくれると……往々、個人的な努力よりもさらに大きな力で、人生が導かれていると感じる。それ故に思う、個人の努力を越えた力は、どうやって得られるのだろうか。と。
運命、宿命について考える。
何が運命、何が宿命か、大きな力を受けて始めて知り、そして、結果を得て始めて理解できるのが、運命や宿命である。そこに人の好悪、意志の立ち入る隙はない。……人の意志の立ち入れぬものならば考えを巡らせるのは無駄である。
だから思う。結局、人が選べるのは、自ら進んでそれに向かうか、無理強いされてそれに向かうかの違いだけである。ならば、前に向かって進むべきだ。それは負けず嫌いなのでも、積極さの表れでもない。たとえ恐ろしくとも、困苦・障害をしっかりと視野に入れているなら被害は最小に済ませることが出来るだろう。だが、後ろから困苦に襲われたらどうなるのか?
絶望は突然やってくるのではなく、目を背けただけで安心している人が襲われるものなのである。
己の威を過信する者も、往々、無駄な争いで被害を育てる。が、逃げられぬものから逃げようとするのは、難を避けるのではなく、被害を大きく育てているだけのことだ。避けようとして被害を増やす・乗り越えようとして被害を増やす……なんと愚かな生き方だろう! 無謀に前に勧めというのではない。そして困苦との勝敗に気取られてはいけない。ただ、最適な道を選ぶようにするだけである。
敵に後ろを見せるな……その努力は、勇気を見せるためにではなく、難を避けるために必要な努力なのである。
優しいとか、優しくないとか
過程だけをみて、優しいとか、優しくないとか、人を裁く。……なんと愚かな話だ。笑って地獄に突き落とす人が優しくて、迷妄から覚そうとする人が残酷であるのか? そういう人は根っからの魔界の住人に違いない。魂を地獄に留めたがっているのだから。
してみると、天国と地獄では、優しさの定義が違うのか? ――それはつまり、天国に住むべくして住む人と、地獄に住むべくして住む人とがいるということなのだ。天国地獄に垣根はない。どちらを選ぶのもその人の自由で、その自由意志の元にそこに暮らすのである。――辛いから地獄は嫌だって? ならなぜ、復讐の念を棄てず、独善を抑えようとせず、見栄を棄てようとしないのだろう?
復讐の賛同者、誹謗の賛同者が得られたなら、きっとあなたのいる境涯は、地獄か、魔界であるのだろう。そして、復讐の賛同者が得られぬのならば、まだあなたには天国への門が開かれているのだ。