神を知る
2004年 12月 26日
誰の言葉だったか……
「人間は二通りいる。神を知る者と、神を知らぬ者だ。」
……この言葉には非常に蘊蓄がある。これは私なりの解釈とみて頂いて結構だが、「神を知らぬ者」とは無神論者を意味しない。熱心な信仰者であっても、神を誤解している場合があるのを指して、神を知らぬ者と呼ぶ。
反対に、神を知るが故に、地上の世俗的信仰になじめずに無神論者を気取る人も多いだろう。『神は死んだ』の言葉で有名な、ニーチェなども神を知るが故に既成宗教を否定したのでは、「ツァラツトラはこういった」を読んだ時、強く私は感じた。
この事は神……キリスト教的な神だけには当てはまらない。高度な理論武装を施した心霊主義者の言葉に薄っぺらさを感じる一方、無茶苦茶な説明をする老霊媒の意味不明な言動の最中に見せる一瞥に真実の重みを感じることもある。
説教されなくても神はそこにいる。理論武装がなくとも霊魂はそこにいる。……それに論理や根拠や証拠が伴うならばどれほど素晴らしいことか。ところが往々、見えず、聞こえず、感じられず、そして極端な場合、信じることが出来ないからこそ、人は理論武装をするものだ。誠実さや霊的な修行よりも口先で丸め込めれば結構なことかも知れない。
神を語るものが神を知っているとは限らず、心霊を語るものが心霊を知っているとは限らない。――人は真実を知らなくとも、 「それ」について語ることが出来るのである。
だからこそ私は思う。真実を語る、という、その意味を。真実を語るためには、聞き手の話を聞かなければならないのである。彼・彼女が神を知る者か、神を知らぬ者か、を判断するために。
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