絆の有り様
2004年 11月 05日
想像してみて欲しい。自分が縛られていることを。それが果たして、自由でないことは容易に想像が付く。
愛しき者との絆は歓びであるだろう。尊敬する者との絆は安心であろう。では、嫌いな相手、憎む相手との絆はどうであるのか?……それが苦しみであることはいうまでもない。
愛しき者を愛し続け、尊敬する者を尊敬し続けることが絆である。即ち愛することは歓びであり、尊敬することは安心である。では、他を嫌い、憎むことはなんであるのか?……それが苦しみとの絆である。
人は様々な利害の中で生きる。一得一失、利を求めれば代償を強いられる。そのような中で暮らしていれば、己を守るために争うことも出てくるだろう。好き嫌いは必ずしも好みだとばかりもいえない。嫌悪は往々、必然の結果である。だがそれは身を守る為の必然であって、己と自分を結びつける絆にするのは愚かなことだ。
人々は、感情の性質だけに注目して、愛することと憎むこととは別物であると分類し、愛することを奨励して、憎むことをやめよと説く。しかし、霊的な視点を得た者にとって、愛も憎悪も、慈しみも妬みも、皆均しく、魂に結びついた縄のようなものだ。――問題は、縄そのものではなく、それが己の魂をいかに縛り上げているかが問題なのである。
取るに足らぬ者を誰が愛し、誰が憎むというのか? 愛も憎悪も相手を認めればこそ生じるものだ。愛も憎悪も、相手を認めた上での感情表現であり、素直さと屈託との違いが有るだけといっても過言ではない。人々は感情を扱うつもりで、実は相手との絆を扱いかねているだけなのである。
愛におぼれて堕落するものもいるし、情けを掛けて破滅する者もいる。嫉妬をバネに努力する者や、憎悪故に身を律する場合もある。――重要なのは、感情の種別ではない。自他の絆の有り様なのだ。