近代心霊思想の近代たる所以

2004年 10月 28日


 空虚な霊媒批判

 たとえば、現代において心霊研究を志す人々は、霊媒の不足を嘆く。しかし、「良い霊媒を見抜く」という命題一つを見ても、みな、霊媒の疑い方の追究ばかりに励んで、そもそも信頼関係が相互作用に支配されていることを忘れている。いくらすばらしい霊媒と巡り会ってもその霊媒から信頼されなければ心霊実験どころか心霊相談にだって応じてはくれまい。

 念写の研究で多大の実績をあげた福来博士の協力者である御船千鶴子は世論に責められ自殺した。その悲劇を生かす覚悟が後年の心霊研究家にあるのだろうか?……信頼関係の大切さを論じずに、霊媒の識別法ばかり論じる人々を見るにつけて、近代心霊の退歩を感じざるを得ない。

 生き神様批判のズレ

 また、くれぐれも霊媒を神仏の化身扱いするな……と主張する心霊家は多い。これも観察者の一方的な主張であると思われる。いや、そこに個人的な怨恨すら見いだせる場合も数多い。そもそも、一体、誰が、何の為に、霊媒を神に祭り上げるというのだろうか?

 そもそも、物事の価値は需要と供給の関係で決まる。生き神様だけでは宗教は成立しないが、信者だけでも宗教は成立するのだ。宗教に生き神様が現れるのは、周到に用意された詐欺・またはそれに類するものであるかもしれない。だが、そういう詐欺が成立するのも「生き神様」の需要があるからだ。まして、現代において、理性を超越した必要性でもなければ中々に信仰心は発揮しがたい。それこそ、平凡な日常の中で神仏に手を合わせる清らかな信仰生活を送っている人なら、「生き神様」などという、名前からしてうさんくさい存在に魅力など見いださぬことだろう。要するに、理性では解決できない問題があるから、生き神様を必要とするのである。そういう人々に、「霊媒を神仏の化身扱いするな」と説くのは、火事場で慌てる人々に防火の大切さを説くようなものだ。そんなことは、火を消し終えてから論じるべきことである。火を消すのを手伝うものが、後で防火の大切さをいうならばまだ良いが、火事の真っ最中に防火の大切さを説くのではただ邪魔なだけだ。あげく、せっかく鎮火しても「だから防火が大切だといっただろう……」などと追い打ちを掛けようものなら、被災者いじめにしかならない。

 さらにいえば、霊媒をたんに霊媒として扱わず、わざわざ神様に祭り上げるのは、信者側の複雑な心理も働いていよう。人間的な好き嫌いを理由に見捨てられるのが怖いとか、自負心が邪魔をして、特別な存在以外には自分の弱みを見せたくないという場合もあるだろう。また、見落とされがちなことだが、敬意の払えない相手に本当の相談を持ちかける人はいないのだ。

 なるほど霊媒を神仏の化身扱いするのは間違いだが、その必要性を解消しないまま、取り上げることは結局、問題を拗らせるだけのことだ。飢えているものをますます飢えさせることは善行とはいえず、食が足りている人間が、「そんな汚いものを食べるな」と、飢えた人から食べ物を取り上げるのは偽善に均しい。汚いものを食べるなといって恥じる必要がないのは、ちゃんとした食べ物を与えつつある人なのである。

……真実は二面、またはそれ以上の角度から見てこそ、語って嘘でなくなる。しかし、一面だけを見て理解したつもりになっている人はとても多いし、これからも増えていくのだろう。たとえば淺野和三郎氏の著作を見ても、繰り返し霊媒を神仏扱いするなという主張が見られる。その主張には大本教時代の失敗からくる内心の葛藤が見られて、私などは読むのに苦痛を感じるぐらいだが、霊媒を批判する一方、良質な霊媒の供給に努力していたのも事実である。つまり、言葉と行動の二面で悩める人を救おうとしていたのである。

 ところが現代では、淺野和三郎氏の言葉を模倣するだけで行動が伴わず、結局、偽善を行う人もかなり多いと見受ける。それは未熟な霊媒を成熟させる代わりに、使い物にならなくなるように潰しているように見える。逆境に耐えるものだけが生き残るなどというなかれ。そんな傲慢な態度で時代の革新を望む者は、実は改革の邪魔者に過ぎぬのだから。

生き神様は本当に間違いか?

 ところで、生き神様はともかく、生き仏様に関しては、少々、複雑な論理が存在する。以下は仏教の普遍的な見解とはいえないかもしれないが……そもそも、阿弥陀様や観音様が人を救うという観念は、民間信仰のもの……そもそも迷信であり、僧侶らがそれを否定しないのは仏教が、飢えた者から腐っていても食べ物を取り上げぬのと同じ論理であろう。本音は、他を助けよう、他に親切にしようという人々の心の働きを、阿弥陀と呼び観音と呼ぶのではないか……だから、誰でも仏の化身として働く瞬間があると良識ある仏教徒は考える。

 また、霊媒に限らず、商売の神様だ、博打の神様だ、野球の神様だ、等と騒がれる生き神様方も、やはり尋常ならざる背後霊の指導があってのことと見なせるだろう。すると、有力なる霊媒が神仏の化身であるというのは、瞬間的、そして観念的には間違いとはいえない。むしろ、神仏の化身にならざる霊媒が何の役に立つのかと私はむしろ疑問に感じる。……いや、尋常ならざる背後霊であっても、それを神仏と呼ぶのは間違っているというのであれば、それはそれで結構だが、死んだら誰でも尋常でない働きが出来るという誤解を広めやしないだろうか? 物事の一面だけを見ては真理は判らない。表面的な動きだけでその原理を論じるのはナンセンスというより、迷信の代わりにでたらめを教えるだけのことだ。

長南年恵を例として

 かつて長南年恵という人がいた。祈祷数分で数十本のビンを薬水で充たし、裁判中にも、薬水を呼び寄せて無罪を勝ち取った破天荒の霊媒である。非常に欲の薄い人であったそうだが、周囲から神様扱いされ、大騒ぎされなければ裁判に掛けられることもなかったであろう。彼女の被った被害は一体、心霊事実を認めない社会が悪いのか、はたまた、利に群がる人々が悪いのか、それとも祭り上げられて断らない霊媒が悪いのだろうか?

 果たして長南年恵は、神の化身か、ただの有能な霊媒か? その疑念は、一人の女性に視点をあわせるのとその背後霊を見るのとでは答えが異なることだが、裁判の前からその死の後まで、多くの人々から神様扱いされていたことは間違いない。では、彼女はビンに薬水を詰める仕事を辞めるべきだったのだろうか? 生き神様と呼ばれるのを避けて、才能を隠し、平々凡々な生き方に身を置き、治せる能力があっても病人を放置し、迷える者がいても口をつぐんで黙る……そういう生き方を善良と呼ぶのだろうか?

 所詮、善悪は、利害にうるさい地上のもの。利害を超越すれば善悪も気にならぬものだそうだが、私は長南年恵をわざわざ神女とは呼ばぬまでも、尊敬に値する霊媒であろうと強く思う。それは彼女の持つ、能力才能の強さに対する敬意でなく、自分の持つ能力・才能・そして運命に対して逃げずに生きた一人の人間として尊敬するのである。

 霊媒能力に限らず、いかなる才能・能力も、強さに応じ、また需要に応じて多くの反応を身に引き寄せるものだ。嫉妬やおもねり……攻撃を受けることもあれば、利用しようと画策する人もいる。「寄らば大樹の陰」ともいうが大樹は誰に助けを求めるのだろう? 翻って思う。一面だけを見て批判をするのは、正義の行為というより、無思慮の表れだと。

 近代心霊思想の近代たる所以

 近代心霊研究や、スピリチュアリズム等といっても、古典的心霊論と比べればましというだけで、公に理解されているのは、真理というより表面的な理解だけでその原理を解釈されているのではないかと思う。天文学でいうなら、いまだ大地は不動で、太陽や月が廻っていると主張する天道説のレベルを脱していないと思われる。いや、霊界に一方的な援助を求める幼児期にあるともいうべきか。19世紀に興った近代心霊思想は21世紀に入ってもなお、つまらぬ問題に足を引かれ続けている。

 霊媒批判の諸問題なども、利己的な視点から一面のみを見た結果であるといえよう。つまり自分の立場を絶対視し、地上を不動のものと信じて、天を見上げて星が動くと主張するのに均しい。事実は、天も地も互いに動き、不動なる物は観念の中にしかないということである。今や宇宙から地球を観察する時代となって、誰もが地動説を不思議に思うものは珍しい。が、宇宙旅行が実現される数千年前から、深い洞察力を備えた人々は地動説を論じていた。観察することは大切だが洞察力は時として観察をしのぐ。

 宗教が科学を支配していた17世紀のヨーロッパにおいて、地動説を唱えたガリレオが処罰されたが、彼は信念を曲げなかったという。教会や民衆も天動説が誤りであることを理解するのはガリレオの死後のさらに後のことである。

 人々が信じるものを変えることは難しい、特に多数の者が信じ、徒党を組んで信念を守ろうとする時、暴力を辞さないことを歴史が示している。そして真実の追究が難しい世の中は、果たして霊性向上に有益であるといえようか? 停滞は精神の死である。近代心霊が知らしめた「死後の世界」は、生き生きと躍動する精神の群れであるのに、新規な思想を冷笑し、批判し、沈黙せしめようとする者が溢れている地上を、支配するのは精神的な死者の群れかもしれない。そもそも、その精神的停滞を打破するための、大々的活動が近代心霊ではないのか?

 「自分もまた、不確定要素の一部として人間関係や心霊について考えていく。」――そういう発想の転換こそが人々に求められているのである。決して、学者の研究結果や、華々しい物理霊現象、うやうやしい言葉に彩られた霊訓をありがたがることを指して、近代心霊思想と呼ぶべきではない。それを受け止める人心に変化が起きなければ、新しい樽に古い酒を詰め込むようなものだ。せっかく薫り高く仕上がった酒が、樽臭くてまずくなってしまうのである。古酒は古酒として飲み、新しい樽には新しい酒を詰めて熟成を計るべきなのである。

 視野の狭き人、狭くても自己主張が強い人は太古の昔から絶えることはない。古典的思想が、そのような人々に台無しにされてきたのと同様に、近代的な思想もまた時代と共に偏見を増やしていずれは新思想に取って代わられるのだろう。しかし、今の我々には眼前にあるその思想を大切に育てる義務があるのだ。


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