次のステップ


次のステップ

2004年 10月 26 日

 精神統一の熱心な参加者氏より、質問が届いた。……が、どうにも返事につまる。質問自体はそう難解なものではない。ただ、回答しても、腑に落ちないだろうと思う。

 もとより、地上での学びとは、論理と共に、得心する事が大切だが、頭で学ぶことの得意な者もあれば、腹で会得することの得意な者もいる。質問だけを見ると、理には知って腹が働いていないのだと予測がつく。が、それはそれ、斯様な予測は心霊家にとって必要なことだが、人々が霊媒に求める事ではない。

 必要なのは霊媒としての答えだが、それが出てこない。出てこないのは、答えがないからだ。そう思いきれずに霊媒は勤まらない。よって回答を先延ばしにするが、次の朝も、また次の朝も出てこない。

 といいながらも感じることがあって、今日に入り、ぼつり、ぼつりと書き始めてはいた。かなりの長文になりそうな憂いを纏いつつ。

 その過程でようやく気がついた。答えがないのではなく、質問が間違っているのだ。

・・・・・・・

 答えがないと言い切り、質問が悪いと言い切る。――私の姿勢を傲慢と断定する前に、もう少しお付き合い願いたい。私はすべてに答えられる等とは思っていない。また、常に私だけが正しいとも思わない。が、人間同士の会話の中でも雰囲気を読み取ることは大切なはずだ。たとえば、相手が「嫌だ!」といっても、それは果たして絶対駄目なのか、条件次第なのか、はたまた、もう一押しを期待しているのか、言葉だけで判断せずに気配を察して次のコミュニケーション手段を考えるのは、至極当たり前なことの筈。

……私もその気配を元に、苦心しているのである。

 宜しい。ならば、回答は後回しにして、一体質問のどこが間違っているのかを明らかにすべきであろう。そう思った途端に、今まで閉ざされた暗幕が開かれて言葉が流れ込んでくるのを感じる。

・・・・・・・

 手段と目的は不可離――手段のない目的は妄想、目的のない手段は不毛である。「どうすればよいか(手段)」、「どう生きればよいか(手段)」等という、問いに答えるためには、どのような人生(目的)にしたいのかが大切であるが、人は皆、生きていく過程でその目的を明らかにしていこうとしている。これでは、「こうすべきだ」「こう生きるべきだ」という回答に支配が生じる。すなわち、手段と目的は不可離であるから、手段を教えることは同時に目的をも教える……むしろ強要することに繋がるのである。

 すると、目的を明示しない、もしくは、明白な目的意識の無い人から、当座の指針を回答することは結局のところ、私等が相談者の人生の重要部分を決定することに等しいことになる。それはそもそも心霊主義の理念に反することだ。――もっとも、それほど大袈裟問題ばかりではない。往々、霊媒を頼ってくる相談者は、問題の袋小路に陥る人が大部分であり、まずはそこから出られるような智慧を与え、出た後で目的を見いださせれば済むことなのだ。……実はそれ故に、熱心に精神統一に励む人の質問・相談に答えるのが難しくもある。つまり、出口を示すレベルではなく、入り口を示すレベルの相談だからだ。

 宗教じみて浮ついた表現を選ぶなら、必要なのは答えではなく、次のステップに進むことなのである。疑問が生じるのは理解しないからというより、従来の低レベルな視点で問題を見ているからなのだ。

 ここに至れば回答は簡単だ。 ……「目先の生き方ではなく、十年、二十年先の自分を想定した生き方を思いなさい。」という所だろう。確かに彼の質問はこれが相応しい。いや、彼に限らず、このレベルに達している人がすでに何人もいる。何人もいながら、質問をせずにただ精神統一に参加しているから、退屈を感じだしているのだろうと思えなくもない。

 が、実はこの答えは空虚であることを私は理解している。具体性に欠けているのだ。次のステップに進みなさい。と言えば、相手もうれしがるだろうが、ただそれだけのことである。彼の質問が間違っているというのは、つまりここにある。現状の指導に物足りなさを感じていながら、一方で次のステップに足をかけられずにいるのだ。それはつまり、ほとんどの過程を終了しながら、ほんの一教科、二教科の単位が足りずに進級出来ないようなものなのだろう。

・・・・・・・

 実はここに、当サイトの精神統一会が抱える構造的な問題が見て取れる。霊媒たる私は、精神統一の指導的立場にあるわけだが、といって、参加者等との間に師弟関係を持っているわけではない。いや、参加者の大部分は相応、敬意を払ってくれているのを感じてはいる。だが、私個人が、その敬意を消化しきれずにいるのだ。つまる所、先生不在で学級委員長の指導の元自習を行っているのが現在の精神統一会であるといってよい。従ってあまり強引な指導が出来ずに、参加者の中にもどかしく思うものもいるのだろう。……それが分かっているなら、時には強引な指導をすれば良さそうなものだが、事はそう単純ではない。

 そもそも、心霊における師弟関係は、他分野のすべての師弟関係よりも遙かに、霊的な要素に左右される。つまり、霊媒が気に入った相手であっても、背後霊が気に入らなければ、ろくな指導が出来ないのである。また、精神統一会の指導についても、その霊的な関係は、心霊相談よりも遙かに複雑である。統一会には専門の支配霊がいるが、その支配霊の采配を参加者と、その守護霊等が受け入れなければ真に精神統一に参加したとはいえないのである。――結局、好奇心だけで参加されても、好奇心を満たすだけで終わってしまう。

 その一方で、好奇心を全否定してしまえば、学習意欲も萎えていく。出来ることならば主催者としては、もう少し好奇心を楽しませるような精神統一会にしたいが、上述の理由から好奇心を否定せざるを得ない状況もあり、その板挟みに苦しんでいる部分も多分にある。……まあ、霊界の本音といえば、私が虚栄心に流れるのではないかと心配しているのだろう。信頼関係の甘さはお互い様だが。

 まあ、それはともかく、今後はもう少し言いにくいことも言う必要があるのだろうと再認識した。

・・・・・・・

 構造的な問題というのも解決は難しいが、指導する上でより難しく感じる要素が、心霊とは本来、非常に抽象的な問題であるということだ。正直言って、抽象的な問題は理解者を選ぶ傾向にある。つまり、理解力のある人はどんどん理解する一方で、抽象的な問題を苦手とする人はどうにも変な解釈をする傾向がある。無知はただ無知なだけで終わるが、誤った理解は偏見を拡げる傾向にある。せめて口を慎むことの大切さを知っているならばよいが、深い洞察力を持たぬものほど、必要以上に知識をひけらかしたがるものだ。……それ故に我が師は、私がHPを開催したのを知って猛反対をした。愚者と語ることは己を愚者にすることだというのだ。逃げてばかりでは向上しないが、辟易とするのも事実である。ここにもまた葛藤がある。

 さて、乱暴な表現をするなら、教えていい相手と、絶対に教えてはいけない相手がいるのだ。私はこの辺の解釈が非常に甘かったことを今、痛切に反省している。反省しすぎて今は臆病なぐらいに慎重だ。……それは何も智慧に罪があるのではない。智慧を正しく使わぬものがいるということだ。ここでイエスの言葉を引用するなら(と言っても私が知ったのは「霊訓」からであるが)――木の種類を見るのにその実を見る――すなわち、ただ見るだけでは本質を明らかに出来なくとも、その結果を見ることで本質を見抜くことが出来るということだ。

 再度脱線を許されたい。善良に生き様とする者にとって、辛い批判は「偽善者」という罵りでは無かろうか? 偽善者という罵りを無視すれば、今度は「独り善がり」と批判される。この堂々巡りは単純なだけに説得力がありげだ。が、木の種類を見るのにその実を見る、という知識のある者にとって、答えは実るまで待たねばならぬとしても、得がたい者とはいえない。すなわち、偽善者の行いならば、偽善者の自己満足を主目的とするが故に、施された者が迷惑に感じる要素が多分にあるだろう。が、相手の幸せを真に願える人の善事であるなら、多少の行き違いがあろうとも、施された者に喜び以外があろう筈がない。

 結局、後に深いが残るとしたら、そこには単純に善とは呼び得ぬ何かがあるのだ。……自分か、相手か、その両方かに。誰の助けを借りても幸せになれぬ人がいて、誰の助けも借りずに幸せになる人がいる。後は言わぬが花である。

 が、以下に相手が善良であり、また充分な理解力を持っていようが、実・結果を見るより明白な立証手段がないのであれば、学び、また、指導するのにあせりは禁物ということだ。一つの結果を確認しては次のステップに進む。そういう進み方を嫌ってはならない。

・・・・・・・

 さて、肝腎の質問への答えである。果たして納得頂けるか否か。

『一つ一つの答えが大切なのではありません。それらは、人生で辿るべき道の一里塚でしかないのです。あなたがしっかりと目標を見据えて、迷わずにいるなら、一々目を留めるのに値するものではありません。手掛かりとは迷った時に使うもの。おろそかにしてはならないが、かといって本当に注目すべき事は他にあります。しかし、あなたがついつい目先の問題に囚われがちなのは、あなたの視野が狭いというより、むしろ別な問題を暗示致します。

 あなたが本当に欲しているのは、目先の答えではなく、表面的でわかりやすい理解者ではありますまいか? つまりあなたは、自分に味方がいることを手応え強く感じたがっているようです。いわば、真実のための手掛かりではなく、手で弄ぶための手掛かりをお求めと見えるのです。』

・ ・ ・

『気づかずに道化を演じてはいませんか? 相手を幸せにするための道化は誇りに思えましょうが、自分を寂しがらせぬ為の道化は惨めなものです。その違いは、道化を演じるという目先に囚われているものには判りません。いえ、目先に囚われているものが演じる道化は、自分を寂しがらせぬ為の道化と言い切っても良いでしょう。

 自分を幸せにするために何が必要であるのか。それを知っている者だけが、真に誇りを抱いて道化を演じられるのです。

 道化て誇りを得る者、道化て誇りを失う者、その差をもたらすのは今の自分を知るだけでなく、明日の自分を知る勇気が必要となります。』

・・・・・・・

 この回答は質問者だけに留まらぬ事に気がつきました。霊的修行を志す人の辿る道なのでありましょう。


2004年 10月 26日

次のステップに向けて

昨日の更新「次のステップ」がきっかけとなり一通のメールが届きました。少々整理を加えてこちらでお返事致します。

・・・・・・・

 質問の仕方

「質問をうまく立てるのは問題をよく把握出来ている必要がありますが、大抵の場合は、なにがなにやら分からないというのが実態ではないでしょうか。」

……その通りだと思います。が、問題はその次です。

 質問が充分に纏められていないのに、1,誰が答えられるのか? 2,よしんば答えを得て、それを理解できるか?

 答え難く、答えがあっても理解が難しいものを求めるのはいかなる動機か?

 答えを求めるというのはむしろ言い訳で、実は手をさしのべてくれるものが有るか否かを確認したいだけではなかろうか……。その事を当人が自覚しているのならば、回答は無駄にはなりません。しかし、当人が心底、回答を求めていると自覚し、他の可能性を斟酌できなければ……こういう方に回答することは、「なんだあいつのいう事なんてあてにならぬではないか」という評価が生じてしまいます。ここで問題なのは侮蔑が生じることではなく、無理解が間違いを産み、間違いが無意味な努力に駆り立てがちなことです。……つまり、「質問が悪かったな」と自ら気がつける人ならば、大きな間違いは起こりませんが、往々、過ちを拗らせるタイプの人を見かけます。

 道に迷ったら、走り出すのではなく、まず立ち止まるべきなのです。迷って走ればますます迷路の深みに陥るからです。

 質問が上手くできないなら、求めるのは答えであるよりも問題の整理、解法への助言であるべきなのです。

 どうにも、途中の経過を省いてでも答えを求めずに入られぬ人が多すぎます。これは日本の教育制度、ペーパーテストで人をランク分ける事の弊害でしょうか? 過程を疎かにするから応用が利かない、応用が利かないのは会得していないから。そして、会得せずに納得してしまうのは、死んだら灰になってしまう……大脳皮質に蓄えるだけで魂に届いていない……知識を大切にしている、非心霊的な価値観の罠にはまっていると言うことでもあります。

振り回されるということ

「問題点をはっきりさせること、そしてその問題点を解決するのに必要な方法をはっきりさせることが大切だと分かっていても、自分が望む方向と手段が異なっていることすら気がつかないということも結構あるのではとおもいます。」

 それは「自分に主体がない」ということです。


 コミュニケーションについて

『「試し」なのか、「あきらめよ」という信号なのか、別に方法があるということなのかという、メッセージの解読の問題もさることながら、見えないなにかに対して、こちらが一方的に授益者/披命令者ではありえないので、どうやら、この「どうしたらちゃんと意志が伝えられるのか」という問題と、発想の転換すら出来ない「思考のパターンを変えるにはどうしたらよいのか」と言うことだと思います。』

 ご自身が受け取るインスピレーションの扱い方という意味で捉えますと、これは三つに分解する必要のある重要な部分です。

1,メッセージの解読の問題

 一人の人間が大衆に向かって一つの疑問を投げかけたとします。すると答えは一つに纏まることは希で、結局、「挑戦を続けよ」という人もいれば、「無駄だやめろ」という人も、また、「別な方法がある」という人もいることでしょう。必要なのは解読ではなく、ふるい分けなのです。ふるい分けせずに解読しようとするから混乱します。

2、「どうしたらちゃんと意志が伝えられるのか」

 コミュニケーションというのは、当事者双方と手段の二つの観点に立って考えなければ成りません。……意念の伝達という観点からいうと、人間は肉体との関わりと同時に、生理的欲望が漲る社会の中にあって、雑音源のまっただ中にあるようなものです。この状況下で意念の交流を行うことは、大騒音の真ん中で耳を澄ませる必要があるわけです。一方、死者達は、騒音から身を離して信号を選り分けることが出来ます。

 つまり、死者達には案外しっかりと通信が送られているのに対して、人間はその返事を受け取ることにとても難があります。

3,思考パターンを変えるにはどうすればいいか

 まともな霊媒(イヤミの意図はありません。以下への伏線です)は、気安く「気持ちを切り替えなさい」と助言します。が、特にマイヤースの「永遠の大道」などを読むと、「気持ちを切り替えよ」という助言が心霊的に見て案外ナンセンスであることに気が付きます。

 つまり、人間にとっての思考とは、霊たちから見て、強度と感触をもっている糸のようだというのです。わかりやすい例でいうと、空腹や、性欲を切り替えることの困難さを考えてみてください。魂と肉体は繋がり、繋がった肉体からひっきりなしに信号が寄せられるのです。その状態で気持ちを切り替えるというのは、これらの糸(欲望)の強度に見合うだけの切断手段が必要となります。これは単純な事例でありますが、人間の動機というのがいかに多くの糸で様々な物事と結びつけられているかを知れば、思考パターンを変えることが、まさにナンセンスに思えます。そして、霊媒が優秀と評価されていく過程に置いて、これらの糸を断ち切っていく必要があるが故に……現世で、この糸を断ち切る苦労を知らない霊媒は、気軽に切り替えろというが、そんなに簡単なものではないのです。むしろとても乱暴なことというべきでしょう。

 むろん、思慮深い助言を与える、霊・霊媒もいるのです。その助言とは、「争うのではなく流すようにせよ」……「変えようとせず無視せよというのです。」これはとても重要なことです。これが出来ない人は何年、精神統一をしても意味がありません。……勘違いならばいざ知らず、故意に悪しきことをしている人に、その過ちを指摘したらどうなるか? そこに闘争心が生じ、闘争心が新たな因縁を生じて縁を切りがたくなってしまいます。……簡単に言えば拗れるということです。拗れたものを無理にほぐそうとすればますます拗れます。むしろ放置しておいた方が自然に解けていきやすいのです。

 同時に、向上心の強い人が往々陥る過ちがここにあります。欠点を直そうとして無理をするからあちこちにひずみが出てしまう。本来一枚の写真や絵であったものをバラバラにして作るジグソーパズルならば必ずすべてがぴたりとあてはまるかもしれませんが、人間の個性というのは必ずしもぴたりとはあてはまりません。多少の隙間はむしろ当たり前だし、その隙間があるからこそ、成長しても無理が生じないという一面もあります。神経質に欠点を直すよりも全体として長所が多い状態を維持することが大切なのに、小さい部分に拘って大局を失う場合がよく見られます。

○『変えようとすることに反対する人々が居ること』

 霊格を絶対値で計るか、相対値で計るかでこの差が生じます。広く世界と比べるなら相対的な計り方も絶対値に近づきますが、往々、視野の狭い人は自分の周囲だけで比べて安心してしまいます。「世界水準は知らないが、おらが村ではおらが大将。それで充分」……このような人は確かに扱いにくい。しかし、地上が霊性向上/魂の修行の場で或る以上、未熟な霊魂が多いことは避けがたいというより、避けることはナンセンスですら有ります。……残念ながらこれは避けがたいことです。後は上手に生きていくしか有りません。

○『ある人を仕組みの中に組み入れてしまう人もいます』

 勉強はまず、真似ることから始まるものです。基礎を身につけるまでは、面倒でもまねごとを繰り返すことが大切ですし、そこからはみ出ようとする人は、枠に嵌めることもよく見られることであります。そして手段に善悪があるのではなく、目的に善悪があるのだ、と考えるなら、枠に嵌めることは必ずしも悪いこととは判断されておりません。そもそも人は社会の中でひしめき合って暮らしているのです。暗黙の枠……他人が犯してはならぬ範囲を身につけて、お互いに気持ちよく暮らせるようになるための躾が必要といえるでしょう。

 自由意志や自主性が大切であるといっても、不適切な動機や目的は、自ずと淘汰されていきます。人々に迷惑を掛ければ、人々から束縛されるのも摂理の一部です。

○質問の纏め?

『平たく言えば、霊的な問題と教育というチューニングの状況では、受信も発信も本人の思考パターンも異常な状態になることもあるのではないのか、だとすれば、生きて肉体を持っている側が自発的に流れを変えようとすることが、見えない存在を変えることになるのではないのか素朴な疑問があります。』

1, 木を見るのにその実を見る……異常な状態になるのだとしたら、その過程がそもそも不適切であることを思うべきでしょう。

2, 庇護者・背後の霊たちの間には相互関係があります。互いに尊敬しあえる相互関係が樹立できないのであれば、その過程には何か不適切なものがあるのです。


○回答・総論

 最初、私もずいぶんととまどいましたが、霊的なコミュニケーションというのは、実は複数のチャンネルで同時に行われる一方で、意識に上がるのは(おそらく)たった一つという特徴があります。得心を与えた意念や、愛情を受け止めた意念と、言語的な意念とが全く別々であることも良くあります。会話が混信するのならば意味がわかりにくくなるだけでしょうが、意念の場合、本文と映像と署名とが別々なものになることも良くあります。つまり、一つに思えて実は混信の結果であり、混信していることに気が付かないから間違った理解に至ることが多いのです。


●メール送信者の方へ

 いろいろな問題が一本のメールに盛り込まれていたために、私の受け取り方に勘違いがないとは申せません。設問間違いを見つけましたらご連絡下さい。


コメントをどうぞ

コメントを投稿するにはログインしてください。

お知らせBy老神いさお。

・スマートホン
iPhone/Androidで閲覧時に、最適化したページが表示出来るようになりました。よろしければ、ご感想をお寄せ下さい。

・サイト再構築中
移行途中のデータが時折、トップページに掲載されますが、編集作業の都合ですので、今しばらくご容赦ください。旧作については、本文右上に日付が記載されます。

・ページ更新
 現在:1056㌻
 復旧予定: 残り480㌻位・・・

老研カレンダー
12月 2019
 1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031EC
1月 2020
 12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031EC
老研イベントリスト
  • No events.
みにみにぶろぐ
  • ・原発全廃
  • ・その後悔の帳尻が合う生き方をしているか?
  • ・我が国だけが原子力を全廃しても、隣国が原子力発電を推進すれば、危険性は無くならない。
  • ・生きるとは生むことである。
  • ・いろいろなる不平不満はあるだろう。だが人は歩んでいる。
  • ・与えられる事を当たり前に思っている者が飢える。
  • ・なぜ、争うのだろう? 事態はただ現実への妥協を求めているだけなのに。
  • ・ 見せられると信じたくなる
  • ・豊かな者は足りぬものに気が付かず、知りたる者は、知らざることに気が付かぬ。……
  • ・ 心に不満が生じるのは、あなたが焦っている証。もう少しゆっくりと生きなさい。

More »

サイト内検索
アーカイブ
サブ・サイト