真心を君に
2005年 03月 22日
霊の実在を論じる前に、そもそも霊という言葉が意味するものを明らかにしなくては、「霊は実在する」と証明できたとしても、「その霊って何?」と、何が実在するのか分かりません。そもそも霊とは自律的存在であるのか、又は観念的な問題であるのか、の結論が出なければ霊が実在するといったところで、結局それは訳に分らぬものがいるらしい、というに過ぎません。――心霊研究以前の、基礎研究が大切と思う所以です。
分っていると思いこんでいる様々な常識の上にあぐらを掻いて、様々なことを議論する……でも基礎の部分に誤解があれば、どんなに素晴しく高度な議論の結果だって、覆ってしまいます。
真心てなんだ?
人のために一生懸命につくしても、裏切られたり、誤解されたり……大切にしているつもりなのに、相手は増長して手が付けられなくなる。等ということも経験します。
人に接するには、やはり、技能が必要なのだろう……社会人を何年も繰返せば、誰もが、真心の大切さは想いながらも、手管ばかりを磨くようになっていくことが避けられません。
静岡オフ会でもその話題が持上がり、色々な意見が飛出しました。その時、私の霊耳に飛込んできた言葉が、
『大切なのは真心です。真心を裏切るのは相手であって、裏切られたあなた方には何の非もありません』と聞えた。つまり、周囲が悪人だからといって悪巧みをするな、誠実に生きる努力をせよ、ということなのです。
一同、その言葉に納得して、又日々を過したわけですが、かく通信をもたらした私でさえ、その後の日常生活中に、『真心だけで本当に足りるのか? やはり不足を感じるぞ』という念が沸上がり、しかし忙しさに追究を忘れていました。そして東京オフ会――参加者の一人から、「真心って何ですか?」と質問が出て、呆気にとられたのです。内心、『バカだな、真心って言うのは』……真剣な想い、とか、純粋な想い、といった字引的な解釈が頭をよぎります。でも違うな、と気がついたのです。……この3月20日の東京オフ会は、何の巡り合せか、私や参加者の背後霊たちが休日を宣言した日でもあり、霊査をとるのにとっても困難を感じていたのですが、それを押して廬氏に呼びかけ質問を託します。まさか廬氏まで忙しそうにしていて、その合間に貰った答は……
『真心と心は別物。人は意識をさして心と呼ぶが、真心とは意識に登らぬ心をさす』――浅野和三郎氏流に言うのならば、荒魂以外の霊魂の働きというところでしょうか。
これには私も衝撃を受けました。今までも、相手の立場に立った論理で相手を説得しようとしていたからです。そういえば、私もかつて、師匠の言葉に反論していたとき、「こんなに心配しているのに」と絞り出すようなかすれ声と共に、一条の涙を流されたときには、論理がつまらぬものに思えて全面降伏した覚えがあります。……会得は難しく、忘れるのは素早い。
そうか、あれが真心か――容易にはたどり着けぬ事を自覚しました。
「真心が大切」と、いくら通信を送っても、それを聞いた者達が、真心の意味を理解したつもりで居るだけ(誤解と偏見がある)のでは、言っても何もなりません。その後の霊査で、真心に関するものが相次いだことを観ると、参加者の守護霊達も誤解と偏見という「詰り」が取れた事を歓んでいるのだろうと察知しました。
知っているつもりは、知らない者よりも愚かなのでしょう。知らなければ間違いもないが、知っているつもりだと間違いを犯すのだから。振返れば以前の霊査がいかに真心という言葉を使わずに、真心の大切さを説いていたのかが見えてきます。やはり、交霊主義には読書に勝る益があり、時間を掛けることには意義があると認識した次第です。
真心という意味を知るのには真心が必要だ。でも真心の意味を知って始めて、真心の意味を教えることができる。
真心を君に……今までは空論だったのでしょうか?