霊―霊媒―相談者の連携

2005年 02月 07日


私も無料心霊相談を通じて、霊媒としていろいろと学んだが、霊媒業で一番難しいのは、正しい霊査をとることではないと感じる。人あるいは事情によって、精神統一の必要もなく、バッシ……と、答えが返ってくるのだ。それを口にした時の相談者の反応にもしっかりと手応えがある。つまり、答えは得るべくして得られるものなのである。それが摂理であり、摂理に従うことの大切さを私はこうやって会得・体得した。

ところが、なかには中々霊査が出てこない相手がある。つまりメッセージの送り手が居ないのである。そもそも霊媒というのは、霊と人との媒介であり、人側からどれほど強い要請または強要があろうとも、霊が答えようとしなければ霊媒・交霊は成り立たない。

が、世の中には押しの強い人がいる者で、何が何でもメッセージを受け取ろうとして、強引若しくは悪辣な事をする人がいるものだ。霊媒にゴマをするならさして不快にも思わないが、メールで脅したり、誹謗中傷を流したり……こういう輩なら、霊達が答えないのは当然だ。――と同時に、沈黙の価値を学ばなければいけないのだろう。私も人の子、時として悔しさに腹が立つこともあるが、下手な言動で物事が拗れたら、更に苦労を背負い込むこととなる。――最小の努力・被害で最大の効果を得る。人が競うべきは収穫の多さであって、他人や自然現象ではない。そうした高い視点に自分を押し上げてみるとまた一つのことに気が付く。助けが必要なのに敵を作る人は、つまり、収穫を求めると同時に他人と競っているのだ。知らずに二兎を追いかけ何も得られずにいるのである。

逆に、霊が重要なことを伝えようとしているのに、人側が自分の我を通すことばかりに夢中になっていると大切な話が進まない。今日、ふとした拍子に思い出したが、「子供が授からない」と悩む人に、「子供というのは一番良いタイミングで得られるように祈るもので、自分の都合に合うようにと祈ると想像もしない出来事で負担を感じたりするものだ……」と、返事をした。が、その返事がこない。あの時、私は随分残念に感じたものだが、訊きたくないと思うことを無理強いしても良い結果はあり得ない……そうして今に至っている。天変地異の多かった昨年を振り返ってみて、やはりあの人はものすごく祖霊・神霊から護られている人なのだな……と感じるのだが、当人は気が付いているのだろうか。苦労と苦悩で行き違いがなければいいと心配している。

先日、ふっと受け取ったメッセージ「他人の親にゴマする恩知らず(2005年2月2日)」は、ようするに先祖供養の大切さを説いたものだ。たしかに、心霊情報に詳しい人や、独学の霊媒は往々、先祖供養をうっとうしく思いがちだ。が、やりすぎるから自分が辛くなり、辛くなるから一切やめるという大げさな反応が、人々を先祖供養から遠ざけている。

死んじまって肉体もない霊魂相手に、本来金がかかるはずもないのだ。強い要請をするのはそれなりの理由が有るはずで、理由もなく厚遇する必要もない。そもそも、居候の不浄霊まで祖先扱いしてしまえば、厄の種になることは必至である。なにせ、居候は居づらくなったら出ていくだけの無責任な連中なのだから。

たとえば、心霊図書館で公開している幽魂問答に出てくる武士の霊が、祟りまで為して石碑を欲しがるなどというのは、その典型だ。ちゃんと読めば適宜に情報があるが、祟られた家は、見つけた切腹死体を埋葬することもなく、所持金を着服し、刀を売却して、今の家産の基礎としたのだ。こういう特殊な事情でもない限り、石碑を建てろ等といわれても従う必要はないのだ。

つまり、与太話まで真面目に受け答えするから疲労困憊するのである。そして、不毛な話を無視していくと、残された要求は案外、容易でしかも真心の大切さが身にしみるものだ。――礼儀正しさは、礼儀正しさにあって報われるし、身が清まる感じも得られる。

何も自分に関わるすべての霊魂を菩薩になるまで供養せよというのではない。実体はその反対で、先祖供養とは因縁の整理でもある。祖先を大切にする……祖先を見直すことで、知らずに抱え込んでいる居候の不浄霊――随伴霊を整理することを忘れてはいけない。

先祖供養の軽視とは、「大事なものは大事にせよ」といわれて、キョトンとしているのに似ている。だが、ゴミと一緒に押し込んで、「ちゃんと大事なものは大事にしている」と思うおかしさに大抵の人は――霊媒も――気が付いていない。そして祖霊(先祖の霊)をゴミと一緒にして気が付かないのは実は自分もゴミまみれで、それが当たり前の状態と思っているからだ。

泥のなか――苦海に沈んだままで、霊性向上などを狙うのは、食事の前に手を洗う習慣と逆行するものだ。清潔で栄養も充分の食を食べて腹をこわしたのでは愚かとしかいいようもない。霊的に不潔な環境をそのままにしておいては、つまらぬ障害で修行――または人生が邪魔されるのである。……だから真摯な求道者ほど、因縁解脱や罪障消滅といったことを熱心にする。言葉だけ聞けば何やらインチキ臭く感じるかも知れないが、身辺に漂う雰囲気すら関知出来なければ、神を学んで地獄に堕ちるものである。

たとえあばら屋に住んでいようとも、そこに客を招くならば清潔であるように心懸けるべきだ。たとえ貧しくても心まで貧しくある必要はないのだから。


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