再生説と統一会への参加
人間が生まれ変わる……仏教思想では輪廻と呼びますが輪廻という言葉には仏教というより、古代インド思想からくる一種独特な再生論の意味合いがあるため、近代心霊では、再生という表現を用います。
基本的に心霊家の大多数は、人間が生まれ変わる事に肯定的でありますが、私は一種独特な屁理屈で、再生説には否定的な態度を取っております。
人の心、人の意識を占めている個性の大部分は、その霊性よりもむしろ肉体の影響に支配されているから……死して肉体の影響を失えば、その個性は大きく変わるのが筋ではないか。まして、個性は肉体の影響のみ成らず、環境の影響も大きく受ける。では、仮に個性が死後も存続するとして、また、生まれ変わることがあるとして、肉体的状況、環境的状況が異なれば、その個性は本当に生まれ変わる前と同じものといえるのだろうか……と思うわけです。つまり、再生という仕組みがあるとしても個性の変化があればそれは純粋な再生とはいえません。……屁理屈といえば屁理屈、しかし、現場経験はこういう発想を必要としているのだと感じます。
そもそも人間の個性というのは、肉体的な影響と霊的な影響のどちらがより支配的なのでありましょうか? 霊主であるべきが、現実には大半が肉主、さらには環境にも支配されている場合が大多数ではないかと感じられてなりません。
もしも、人々が死ねば滅びてしまい、また縁が切れてしまうような、肉体や環境に支配されて生きているなら、生まれ変わりや死後の個性存続ということに確信を持てないのはむしろ当たり前だと思うわけです。
そして、実践を重視する心霊家が精神統一の修行をするのも、個性の支配を霊的な部分に委ねるためといえます。そう、ある意味に於いて、死後も個性が存続する人と死後に個性が崩れる人の二種類あるのではと思えるのです。そして、心霊家の多くは、死後の個性存続を信じるというより、死後にも個性が存続するように努力しているのでありましょう。
さて、明日は、私が主催するものの中で、今年最後の精神統一会です。その申し込みのメールには、今年最後の精神統一に望むに当っての覚悟が記されている場合が多く、指導役の霊媒である、私もその重責について思わざるを得ません。と同時に、参加できない人々に対して、言い難き様々な事柄が心の中に浮かび上がりては消えていくを繰り返します。
「精神統一」と呼べば、一個人の修行と読み取れるかも知れませんが、心霊的な見地からいうと、人とその背後霊との共同作業なのです。さらに多数が集まり、指導役の霊媒も参加する精神統一であれば、集う霊はより多彩に、またより専門的に成っていきます。いわば、地上の参加者に感じ取れるのは、氷山の一角であって、真の作用は見えざる部分に求めなければ成りません。
参加すれば、○○が得られるよ……そういえるものならば、もっと色々と具体的な話も出来ましょうが、事はそう単純ではありません。こちらが努力しても、霊界がそれを評価しなければ何も得られぬのですから。だからこそ私は極力に言葉を慎むわけですが、精神統一だけならばどこでも出来るとばかりにオフ会に参加せずにいる人が多いことは残念に思います。