怨霊の科学、いや哲学?
2004年 11月 30日
私は、水を遣りすぎて植木を枯らすタイプの人間だ。だから荒野を開墾するのには向いているが、既存の畑はダメにしてしまう。
人付き合いに於いても、自立心の強い人とはうまく行くが、依存心の強い人を苦手にする。付合っているうちに……ああ、こういう言い回しで誤解する女性がいるので表現を変えるが……関わっているうちに相手がだんだん増長してくるのは不快なものだ。
であるから、私は霊感発現前後から、自分の運命に大きな弱点が見えていた。
「私が滅びる時は強敵に滅ぼされるのではなく、情けを掛けた相手に裏切られて滅びるのだろう」
力を競い合っての果てに勝負がつくなら、たとえ後悔は残っても恨みは残らない。しかし、だまし討ちや裏切りの果てに勝負がついたならどうだろうか? ……恨みの念を持ってはいけないとか、執着心から自縛に陥るなどというのは、オカルト話の読み過ぎである。因果律の働きと部分再生説を考え合わせると、高潔な人格の持ち主ほど逆境に於いて後に祟りを為しうることが類推できるのだ。
因果律より怨念を読む――「手に入れちまった者が勝ち」という考えがあるから、騙してもなんでも手に入れようとしがちだ、だが、一得一失、何かを得るにはそれに見合った代償が必要なものなのである。無理に手に入れたら代償はさらに割高になる。安易に手に入れたつもりでいて実は苦労して借財をこさえただけなのである。
部分再生説より怨念を読む――部分再生論とは、生死の循環に於いて一つの人格が完全に生まれ変わるのではなく、魂の中で、不完全な部分だけが再生(生まれ変わり)し、完成した一部分は生まれ変わることなく向上していくという説である。私の尊敬する心霊家はこぞって、部分再生論者だが、私はどうも部分再生論にうさんくさいものを感じている。まあ、部分再生論を否定しても、高度な霊格の持ち主には相応の随伴霊……見習いのようなもの……がついている。指導役が人生半ばで泣訴すると、行き場を失った随伴霊の復讐を招くことが多々ある。
祟りを為すのは、人格卑しい人ではない。むしろ、人格卑しい人であるなら騙されても自業自得の部分も多く、また、努力が裏目に出て祟るほど相手を幸せにしかねない。祟るのは往々、人格貴い人であり、さもなくば反対に、祟られる人が往々人格卑しいのである。
まあ、別段私は、今日明日に死ぬ予定もないが、死んで化けて出たからといって安易に軽蔑をしないで頂きたい。もしもその死に方が哀れであったても、なお、祟りもなければ、それこそ随伴霊もいない詰らぬ奴であったか……と、疑うぐらいの器量を持って頂きたい。
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いささか、下品な話に見えましょうか? では、もう少しだけ、説明しましょう。
怨霊であるとか、祟りであるとか、そういった心霊談義は往々、情緒的な解釈で皆納得しているかのようにみえます。が、しかし、実はそう単純なものではないのです。では、どう受け止めればいいのか? 大切なのは、実現する手段は動機よりもむしろ計画者の巧拙と重大な関連があるということです。ぶっちゃけた話……未熟者の復讐は未熟に過ぎず、巧みな者の復讐こそが恐ろしいと言うことです。