心霊写真について
2004年 10月 12日
いわゆる心霊写真について、当サイトのスタンス。
いささか、回りくどいタイトルで恐縮ですが、少々お付き合いを下さい。そもそも何かを議論する時には、その対象が何であるかを明確にしなくてはなりません。私が考える心霊写真と、相談者の心霊写真とが僅かでも異なればその違いが誤解の元となります。まして大きく異なれば議論が噛み合うはずがありません。
さて、私がいう心霊写真は、心霊現象の一形態として、写真上に表現された「死後個性」の意志であると定義させて頂きます。……少々難解に見えますのは、事実を無理に言葉で表現しているからで、内容はそれほど難しくはありません。つまり、「何らかの意図」が読み取れてこそ心霊写真、または、死後の個性存続の証拠となるのが心霊写真であると考えておるわけです。
ところが、どうも世間一般で、「心霊写真ではないか?」と問い合わされるものの多くは、「どうしてこんな写真になったのかが判らない、不可思議な写真」であります。しかし、 原因が分からないから心霊現象だ、という考え方は、近代心霊研究が、つとに否定するものであります。乱暴な表現をあえて使えば、雨も風も雷も、森羅万象のすべてが神の意思の表れと考えられていた時代と、何ら進歩のない古典的な発想といえましょう。
むろん、そのような発想を助長しているのが、一部の職業霊能者であることを私も承知致しております。と同時に、その職業霊能者のすべてが口から出任せをいっているとは限りません。くどいようですが、 不可思議だからといって心霊現象であると考えるのは前近代的な発想ですが、しかし、不可思議な現象の中に心霊現象が含まれないという証拠もありません。
……説明が回りくどくて判りにくいかも知れませんが、説明が判りにくいのは、皆が「いわゆる心霊写真」の真偽に拘り、その心霊写真が出来るであろう動機に関心を持たぬ事から生まれる混乱なのです。それはたとえば、あなた方だのガラクタだと思った大きな塊が、実は高名な彫刻家の作品であったようなものです。私なども抽象派の作品などは全く理解出来ないのですが、それはさておき、ただのガラクタと彫刻の差といえば、なにより重要なのは作者の動機と申せましょう。
その動機という観点から、改めて心霊写真を考えてみます。……死後の個性(いわゆる霊魂)が、地上の人間とコミュニケーションを取りたくて様々な手段を使っている。その一つの形態が写真である。と推測出来る。が、一枚の写真だけで意味が取れず、霊媒の解説を必要とするなら……? 最初から霊媒を使えるのならばわざわざ不可思議な写真などを写させる必要はありません。
これは心霊写真に対して一つのジレンマをもたらします。すなわち、どんな写真であろうとも霊媒に持ち込めば、霊媒は「お説教」を始めるのではないでしょうか? つまり、霊媒・霊界にとって必要なのは単に切っ掛けに過ぎないからです。
そして、「心霊写真の氾濫」はかくして霊媒に助長されるのだと推測されるわけです。さらには、一霊媒として、あまり考えたくないことですが、職業霊媒も食べるためには新規業務を開発せねばならず、それ故に不可思議写真を写して不安になった人々の心の隙間を埋めているなどというのも、心霊写真増殖の責任の一端を担っているのでしょう。
その他にも理由はいくつもあります。良く聞くこととして、最近のカメラは、遠距離も近距離も同じように写す事から、レンズの汚れやら、撮影者の吐く息やら迄、しっかりと写し込んでしまうことなどもその原因の一つでしょう。その程度の写真はいくらでも写すことが出来ます。たとえば私も、雨の降っている日等は、たとえ周囲が充分明るくともわざとストロボを灼きます。すると対象の回りに光る星がたくさん取り巻いているような写真が得られます。そういう実験などを繰り返して思うのですが、人はどうもカメラと自分の眼を同一視し、自分が見えるものが映って当たり前、自分が気がつかなかった事物は映って無くて当たり前という考えから、見慣れぬ写真を「心霊写真」と決めつけている場合が多いようです。
なぜ、それが心霊写真なのか?
私は富士山の周辺によく遊びに出掛けます。特に夏の暑い盛りは絶好の避暑地として利用しているわけですが、富士の周辺には、寒さから日中でも吐く息が白く見える所がたくさんあります。また、そういう場所には祈祷所が設けられていることがざらにあり、当然、そういう所で簡易カメラなどで撮影すると、自分の吐く息が写り込みます。まあ、私も自ら霊媒を任じているわけで、霊気の溢れる場所で撮影した写真に感じるものもあるのですが、メッセージ性もない写真をわざわざ心霊写真などと騒ぎ立てる気が起こりません。
ところが、どうもそういう写真を喜ぶ人々がいます。そういう人たちの言動をみていて思うのが、事実よりもむしろ、心理テストなどで用いられる、 「ロールシャッハテスト」と同様の効果、すなわち、撮影者の願望の投影として、心霊写真として騒いでいるのでは、と思えることです。
特に、心霊に関心のない人ならば、気にも留めない写真の瑕疵《かし》(レンズの汚れ、カビなどが映っている場合もあるそうです)を、心霊に関心のある人は大騒ぎをするのではないかと思えるわけです。
なにが心霊写真なのか?
近代心霊研究の観点からみると、本来の心霊写真というのは、不可思議な写真というより、むしろ、当たり前の如く見える写真であるべきでしょう。死者と生者との区別がつかないぐらい明白であってこそ、心霊研究家が納得しうる心霊写真であると思われます。なにより心霊写真と認めがたいのは、わざわざ霊媒が解説しなければ意味が分からぬ写真です。
そもそもメッセージというのは双方向の理解があって始めて成立します。第三者の助けを得なければ理解出来ないのであれば、その時点で適切なメッセージとは申せません。ことわざにも、「好きな人ならアバタもエクボ」、「坊主憎いけりゃ袈裟まで憎い」等と申しますが、心霊的なものにあこがれている人が写真の瑕疵を持って心霊写真といい、また心霊的なものに恐怖感を抱いている人が、真の心霊写真を、写真の瑕疵であると見なす事例は多いのではないかと思われます。
では、怪しい写真はどう扱うべきか?
これは他の問題にも当て嵌まることですが、そもそも人が介在する問題に、心霊的な影響が全くないものなどというのはあり得ぬと思われるべきです。何しろ人の動機からして、その人本体の霊魂が示唆であるか、守護霊・祖霊の感化であるか、悪霊・憑依霊の圧力であるか、無理を言えば必ずどれかに分類可能なのです。いわば、どんなことであろうとも霊媒はそれを心霊と結びつけるのがむしろ当たり前と考えるべきなのです。ですから、「○○は、心霊の影響か?」などと問われて、違うと断言出来る霊媒は全く持って珍しいというべきでしょう。
従って、今回のテーマである心霊写真もそうですし、迷信深い方々にそうと信じられている病気などについても、まずは専門家、写真のことならば写真屋で尋ねてみたり、病気のことならば医者に尋ねてみて、匙を投げられてから霊媒を頼るのが適切だと思います。
事例:
私自身、「足が映っていなかった(透き通っていた)」という写真の鑑定を依頼され……依頼といわれても写真そのものが送られたわけではなく、ただその事実を電子メールで送られただけですが、……瞑目・瞑想後、
『これは交通事故の予兆で、近い内に足をケガをすることになる。が、命に別状はない。祖先の霊が守っているという証として、この写真を撮らせた。従って、事故にあってもあわてることはない。守られたことに感謝の念を忘れなければ今後もしっかりと守るであろう』
という霊査を取り、そのように回答したことがあります。そして一週間後にその相談者から
「交通事故に遭い、足にケガをした。どうしたらいいだろう。お祓いが必要か?」
というメールが届きました。ご先祖が守ってくれているから足だけで済んだのに、感謝の代りにお祓いを思いつくなんて、私の返事は読んで貰えなかったのかな……と少々ガッカリしたのですが、一枚の不可思議な写真が、ある人に霊的な問題(先祖供養や信仰心の大切さなど)を考える切っ掛けになったとしたら、これは、私の定義する所の心霊写真、すなわち、「死後個性の意志の現れ」と見なすことが出来るでしょう。