疑り深いと騙される
2006年 03月 08日
家庭に不運や病人が多いことから、風水、お祓い、東洋医学などへの関心を持ち始めた人が、いろいろと話しているのが、聞くともなく聞えてくる。
経験値を増やしたがっていた頃の私ならば、または、自分を試したかった頃の私ならば喜んでくちばしを挟んだかも知れない。まして、まんざら知らぬ中でもなし、また、その人のお父様の霊から、何かにつけて、「助けてやってくれ!!」と懇願されたこともあるが、今回もまた断るべきであろう。
因果不昧
「因果不昧」――因果はくらませず。つまり因果の法則からは逃げられないことをいう。
内在する因の解消に努めることなく、縁だけで結果を変えようとするのは無駄で不毛な努力だ。なにしろ、努力に応じて一時的には解決して見えるのである。ここでまんまと味を占めた人は、次々と因果をくらませようとするが、問題は先送りされただけで何も解決しておらず、自分が弱っているときに突然、すべてが降出しに戻ったりするのだから。高利貸からの借金で借金を返すようなものだ。無駄な努力が即座に無駄な結果が出るなら人に何ともわかりやすいが、悪い結果が出るのに時間が掛るから、無駄な時間を費やした上に利子まで付いてその返済に途方に暮れることにも成る。ところが、目先の利益である、「因果をくらます」事に気取られている人にこういう原則論を告げても理解しようとしないものだ。だからこそ沈黙を守ることに意味がある。
……といえば、なにやら厳かに思われるかも知れないが、横着者のおっちょこちょいが不運を招くのは、どんな神様の御札やお祓いだって解決しないと思うだけだ。さらにいえば、横着者が体を冷しがちで、冷えから来る病気にかかりやすいのも…… こういうことを言いだしたらきりがない。
そう、人の努力の余地あることを神頼みするのはナンセンスでしかない。
ましてや、お節介じみた小言を聞かされるよりも、迷信を信じる方が気楽なのが人情で、それ故に、名ある霊媒が「狸の霊をとっておきましたが、あなたも○○に流されぬように注意しないと、又取憑かれてしまいます」等というとか。私にはこれが出来ない。なにしろ、無料相談なのである。よそで相談して念のために私の所に来る相談者も多いので、こういう詭弁を使うと事態を混乱させ、また善意で自分の立場を悪くしてしまうだろう。つまり、ばからしいのである。因果をくらませずに問題解決するのだって難しいのに、因果をくらませようとする根性を正すのはもっと難しいし、何より当人に直す気がないものを治そうとするのは不毛でしかない。
「私は疑い深いから」
因果不昧に関することは常々思っていることを整理しただけであるが、耳を塞ぎたくとも話は更に続いて、ハッとひらめきをもたらし言葉がある。
「私は疑い深いから全部を信じているわけではないのだけど……」という、一種のいい訳じみた枕詞を聞いたとき、私の霊耳に、
『疑い深いから騙される』と聞えたのだ。やれやれ、ようやく人の話の立聞きから解放される…… この霊のいうことに耳を傾けてみる。
・・・・・・・
疑い深いから騙されるのだ。
ここでいう、疑い深いとは、つまり自分の知識と理解から外れたことを信じないということである。だが、理解しなくとも効果を眼にすれば、理解しないまま利用しようとするだろう。そして、力を利用するのに、正しい使い方をしらずにいることほど危険なことはないのである。
むろん、彼が疑っているのは他人の力、専門家の力である。だが、その専門家なるものも、誠意を尽すために施術するのではなく、金を儲けるために施術をしているのである。理解しないまま専門家を利用しようとすれば、そこに騙される余地は多分にあるし、それ以前にすっかり霊的事実を誤解しているのではないか。これでは何を得られるのやら。
自らの愚かさと、依存心を隠そうとして、「疑い深い」等といってみても、それは騙されやすさを他人に表明しているようなものである。いうことの一から三まで正しくても、十や百まで正しいとは限らない。疑問を真摯に見つめる者であれば、一つ二つの誤解があっても大筋に過ちなく真実を明らかにする者であるが、己の理解力の貧しさを、「疑い深い」等と言訳しているような者であれば、一つか二つの証拠を観ただけで、十も百も千も信じてしまうだろう。―― 宗教や心霊を扱う者の良くやる失敗である。とくに、疑い深い者が深く傷つく失敗である。
盲目的に信じることが危険であることはいうまでもない。だが、誠実なる者ならば、「あれは怪しい」という周囲の助言にさえも誠実に応対するであろう。しかし、不誠実な態度の者ほど騙されても助言を得られず、頑迷な者ほど手玉に扱われやすく、愚かさと無理解さを自覚せずに「自分は疑い深い」等と自分自身を騙している者が他人に騙されても気が付かぬものである。
疑うよりも誠実であれ。誠実であれば小さな裏切りを無数に経験するとしても、大きな裏切りからは守られるものだから。
まして人間関係には誤解が伴って当り前であるから、小さな裏切りと、小さな誤解を踏越えていくことがどれほど人格陶冶に有益であることか。だが、愚者は小さな修行を嫌い、避けて、大きな修行を乗越えられずに挫折するのである。……しかも、何度、再生を繰返しても同じ過ちを繰り返す。プライドが邪魔をして課題のレベルを下げられないのだ。
2010/01/28 at 21:20
[...] 参照: 疑り深いと騙される [...]