自他を共に大切にする。
自他を共に大切にする。
2006年 01月 01日
善く生きようとして人は努力する。
だが、社会は多く努力の結晶だ。それは個人レベルで見るとき、出過ぎれば打たれ、足りなければコジられ、ちょうど良い状態を維持することがとても難しいことを意味する。……行進ならいざ知らず、努力の結果を横に合わせるのは難しいのだ。
多くの人は、努力の無意味さを声高に主張する。だがその言説は、努力無き者の不毛さを見れば肯定できないことに気がつく。―― 努力は果たして不毛なのか、必要なのか。……何のことはない。正しい努力の有無こそが問題なのだ。
人は自身への義務と同時に、社会・集団への義務を義務を持っているのだ。それを無視して、自分だけ幸せになろうとしても……、または社会の幸福だけを勉めても、うまく行かないのである。
愚者に騙される
2006年 01月 08日
私は、世の中に悪意はそう多くないと感じる。多くの人は幸せを目指して最善を尽しているのだろう。だが、往々、人々の利益は相反する。つまり、誰かが幸せになろうとすると、他者の幸せを邪魔することになりがちだ。
思慮深く、なるべく多くの人々と共存共栄を図ろうとする人もいるが少ない。…… 他を省みずに自分の幸せを追求すれば周囲に及ぼす被害は甚大だ。これはたとえば路上駐車を見ても分かる。誰もが目的地に最短の場所に車を止めたらたちまち交通は麻痺してしまうだろう。だが私だって迷惑駐車を敢てするときもある。たとえば足の悪い母をどこかに送るときなど……そういう時には世間の「恕」を欲する。だが、路上駐車を見咎める人の眼には細かな事情までは映らぬ事だろう。それがこの世界の不自由さだ。それはさておき、個人の都合と社会の都合は往々相反する。幸福の追求が思慮を必要とするのは明白なことだ。
世の中に、身勝手、ワガママ、独り善がりと後ろ指をさされる人は多い。もしかしたら、私もそう詰られているのかも知れない。だが、個人の利益は往々、相反する……立場の違いが問題を生み出していることも多い。だが何よりも大きな問題は、悪意よりも思慮の不足、つまり自分の行為がもたらす影響を適切に考慮しないことが及ぼす影響であろう。つまり、身勝手さというのは悪意から生じるのではない。無論ワガママ・独り善がりもまた悪意から生じることは滅多にない。それらは近視眼的行為の結果として生じるのだ。つまり思慮の浅さの結果なのである。
悪意があれば、よほど麻痺でもしていない限り後ろめたさを持つのが人間だ。それ故に悪意あるなら他者の非難に気後れを感じるのが普通の反応だ。だが、悪意が無いのに他者から非難されたらきっと不愉快であろう。不愉快が昂じて悪意に至るかも知れない。そう、無思慮故に身勝手な人が、非難されたが故に攻撃的になることは良くあることだ。
世の中に悪意ある人は少ない……だがらといって人々が善良であるということにはならない。少なくとも悪行と善行の収支が黒字である… …善なる成分が多いとは限らない。実をいえば、「善」の対極は「悪」というより、「愚」なのである。だから、悪人ではないと信じた相手から酷い目に遭わされたりもする。それは、悪人を見抜けなかったが故の過ち・結果なのではなく、愚者の持つ危険性を過小評価した結果なのである。
愚者を見抜けぬ、その愚者に騙される……すると、一番愚かなのは一体誰か?