似而非《エセヒ》
2005年 05月 25日
似而非《エセヒ》……似て非なるもの
インターネット上には無数のホームページがある。関心・無関心の差によって、アクセス数の違いはあれど、扱われる情報には、それぞれに価値や意義があるのだろう。……だが、乱立すればそこに競争が始まる。その競争の中には、往々、似而非的な議論が見いだせる。
発端
……たまたま、ネットサーフィン中に浅ましいサイトを見つけて批判めいたことが心中に浮かんだが、背後から叱られてその話題は辞めることとする。なんとなれば、批判は下品、ケンカは愚か、ただ黙って己を世に問うべしと言うのがわが背後霊の指導方針だそうだ。
……対人・金銭問題に悩む某氏に、本日午前中に返事を送ったが、どうも充分に理解していない様子。補足を送るべきと文案を練りつつあった私の耳元に『自分で考えることも大切。今理解しないからといって甘やかすな……』と聞こえる。 私はどうも、水を遣りすぎて花を枯らすタイプだ。
主義・主張
当サイトが配付したいと思うものは、知識ではなく知恵だ。そして、知識とは「知ること」であり、知恵とは「知を生む力」である。
多くのサイトは、知識を与えてくれる。それはつまり、水を与えるのに例えられよう。対して、知恵を与えるというのは、知識を生み出す根源、つまり、水源たる泉を与えるのに例えられる。
私は、知識ではなく、知識をもたらす知恵を伝えたいのだ。
……いや、私もまだまだ未熟で、知恵を与えるつもりが知識を与えて悦に入る場面も多々あり、叱られ、反省しながら日々を過ごしている。
広告・宣伝
知識の優劣を論じるのはナンセンスだ。山ほど在庫を抱えていても、売れるのは顧客が必要とする商品である。すなわち、需要の多い知識であれば、多くの人々から求められるだろう。だが、需要のない知識は、他と比べたり、宣伝・脚色が無ければ人々の関心を得もしない。
何事にせよ広告が必要であるとしても、他と比較するような浅ましい宣伝までが必要となるのは、その程度の価値しかないからだ。――情理に訴える程度の価値しかないのだ。
では知恵はどうか?……より大きな知恵が好ましいのは言うまでもないが、いざという時、せっぱ詰まったとき、己を救うのは智者の知恵か、己の知恵か?
知恵の功罪
人は己の思いつきに騙されもする。だから己の知恵が生み出すものと、一般常識としての知識とくらべる事は大切だ。
だが、知識が正しいとも限らない。……知識の良否を見抜くにも知恵が必要だからだ。
大切なのは、知恵と知識とを上手に扱うことである。
知識偏重の嘘
としても、知識は一夜漬けが効くが、知恵は一夜では身に付かない。
知識は受売りも出来るが、知恵は受売りできない。
世の中には、知恵と知識を比べて、知識を大切にする人も見受けられるが、容易に偽装が可能なものを尊ぶ人を私は信じる気になれない。
似而非
似而非が横行する現代――そんなにも己を虚飾したいのか。自ら考えることを辞めてまで、先人の知恵を尊ぶのであれば、その心のあり方は亡者でしかない。
考えよ! 考えることを楽しめ! それこそが永遠不滅の生命のありかただ。