妄想家
04年 08月 23日
「私には夢があったのだけど……」という話を聞かされた。私は内心、『こいつは一生不幸のままだな』と実感した。更にいえば、『絶対に縁を切るべきだな』と確信した。
夢の中に結果だけがあって、その過程に何ら自分の役割がないのである。
たとえば、「一生懸命働いて金持ちになる」とか、「努力して事業を興す」などというのならば、そこに自分の果たすべき役割を思い描いている事が見て取れる。それならば、たとえ考えが甘くとも、努力と工夫相応の結果は得られるかも知れない。
しかし、「私は金持ちになりたい」とか「私は社長になりたい」などというのでは、ただ、棚ぼた式に幸運を待っているのに過ぎない。まして、祖先の陰徳がたくさんあって、生まれつき有り余る幸運の元に暮らしてきたような人であるなら、その考えの甘さに内心腹立たしく思っても、そこはそれ、心霊家が甘受すべき一つの現実に過ぎない。しかし、陰徳もなく、やることなすこと裏目に出ている人が、あえてこういう夢を持っているなら……『寝言は寝ていえ』というべき所である。
そこに自分の果たすべき役割がなく、しかし自分の居場所がある……誰かが自分の幸せのために働き、自分はその結果を受け取るだけというのなら、それは妄想以外の何物でもない。
自分の役割があるなら、努力する事で夢が近づく事もあるだろう。だが、役割がないのなら、幸運を待つ事しかできないではないか。自分を生かさず、ただ、幸運を待つなら不毛極まりない生き方である。……『お前、夢の実現に向けて何か努力しているのか?』そう突っ込みたい気持ちを堪えて、私は相手にこういった。
「自分で実現するのが夢。人に実現して貰うのは妄想だ」
すると、相手は「いわなければ良かった」という。うん、確かにそうなのだろう。私と相手とでは夢の本気度がちがうようだ。私にとって夢とは実現すべきものであり、他人の夢でも本気で応援すべきものだと考える。それによって、相手から何らの見返りがなくとも、私が死後に行くべき境涯は、私が思うほど高いレベルでないとしても、少なくとも親切が報われ、誠実さが評価されるのであれば、人生を棒に振らぬ程度に人に親切である事は無駄ではないと思うからだ。
だからこそ思う。実現しない夢を見ている奴が、どうして幸せになるんだ?
妄想するのも脳の体操だ。そう思えば、ある程度の妄想は必要ですらある。だが程度ものである。折角の人生を不毛に過ごす。まあ、どう生きるのもその人の人生だが、誰が不毛な仕事に手を貸すというのか? 神仏だって見放すだろうと思うし、神ならぬ霊媒ならばなおのことである。
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……が、こういう妄想の持ち主が、霊媒である私と懇意にしたいと思っているなら、それは明らかにろくでもない欲望の働きだ。また、誰にでも親切であろうと努力する心霊主義者と仲良くしたいと思っているなら、それもまた、ろくでもない発想だ。自分は与えず、でも与えられたいと思うのはフェアーじゃない。つまり、親切にすべき相手ではないという事だ。
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若いと情熱から理《ことわり》を無視しがちだし、思春期に抑圧されすぎた人が妄想的になるのは理解する。まして、努力が実を結ばず、あがけばあがくほど物事が拗れる事を長い事経験したら……『自ら努力したらますます夢が実現しない』そう思えておかしくない。 おかしくはないが……無意味である。いったい、自分の努力の余地のない人生は一体誰の人生なのか。
貴重な時間を妄想に費やして、不幸になるのは誰か? そして、自分を不幸に置き晒しているのは誰なのだろうか? そして自分の人生は一体誰の人生のなのか? ……なんとも不毛な生き方である。その不毛な生き方に誰が真剣に手を貸すというのだろう? 不毛な生き方を改めることなく幸せなど掴めるはずもない。だが、なぜそのような不毛な生き方に落ち着いてしまったのか。その人生の闇は深い。
闇が深いというのは、罪を意味しない。ただ、そこから抜けるのに多くの苦労がいるし、助けようとする人をも迷わせる危険がある。……二重遭難、……三重遭難。 ……労多くして得るものは少ない。いや、なにも得ずに多く失うかも知れない。善良な相手であろうとも、友人として適しているとは限らないのである。むしろ、少々邪であろうとも合理的な人の法がよほど付合いやすいし得るものも多いのだ。