誰の気持ちが責めるのか
2004年 06月 11日
家庭争議に行き詰まった人から、愚痴のメールが届いた。詳細はむろん、触れられない。
自分が悪くて争議になるなら、その苦しみは自業自得だ。家庭争議でも、自分が選んだ配偶者の問題なら、やはり自業自得だろう。……当事者は、「自業自得」という言葉を受け入れてはいるけれど、その体験談をまともに聞かされたら、私が安易に、「自業自得」という言葉を繰り返すのを見て嫌気がさすかも知れない。……好きで自分を不幸にする奴がどこにいるんだろう?
うん、まったくだ。もし私がそれを考えないとしたら、私はきっと偽善者なのだろう。
私が申し上げたいのは、「自業自得だから苦しくて当たり前」という、間違った考え方ではない。「自業」とは、要するに自分の欠点であり、「自得」とは、結局、自分の欠点を自覚するということだ。
つまり大切なのは、自分の欠点を自覚し、克服する過程なのである。
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だけど!! 人間は無意識に、ただ眼前の苦しみから逃れることに気を囚われてしまう。いや、そもそも、この自業に囚われるのは、眼前の幸せに飛びつくからだ。たとえあなたが幸せであろうが、なかろうが、砂糖がまぶしてある物の中まで甘いとは限らない……
自業自得なのは判った。謝りもするし、改めもする。だからもう助けて!!
と、祈って報われない人ばかり。たまたま、心霊主義/スピリチュアリズムなどの知識と出会うと、なんとなく、自分を反省してみれば苦しみから救われるかのように錯覚して……所詮錯覚だと気がつく。やはり楽にならない。
うん。その原因は簡単だ。祈る人の心に嘘があるから――「私の考えが甘いから苦しむことになる。だけど、世の中には私よりももっと甘い考えで、でも、幸せな人もいるじゃないか!!」……苦しみから逃れようとあがいている人なら空手形を乱発することも不思議ではない。困っている人の誠意を信じるのはナンセンスだ……祈ったって救われはしないよ、そもそも……
加護の強い人や、信仰心の強い人が救われると考えるのは、実に幼稚な因果観としかいいようがない。本当に強い加護を受けている人なら、世の中に、苦難があることすら気がつかずに暮らせるものだ。助けてといわなければならないのはそれほど手厚い保護下にあるとはとても言えない。いわないよりはましだろうけれど。
つまり……苦境に陥るのは、あなたが良いとこのお坊ちゃん/お嬢ちゃんでないからですよ。辛いという一言で、上げ膳据え膳、すなわち、座して待つだけで助けて貰えるはずはないのです。ならば、自分の苦悩から抜け出るには、死にものぐるいに働くことです。あざけ嗤われようが、足を引かれようが、苦悩の解決とは関係ないことで、邪魔するなと怒鳴りたいことであろうが……とにかく働くことです。そうやって、徳を積まなければ弱い加護が強くなるはずがない。
痛み止めをいくら飲んでも健康にはなりません。ただ、ジタバタとするより心身が休まり、ひいては自然治癒力が働くというだけ。苦楽だけで考えずに為すべき事を考えて下さい。痛みを止めることよりも痛みを利用して幸せになれないかを考えるのです。
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勝ちがたい相手なら……肉を切らせて骨を断つ……すなわち、我が身を犠牲にしても相手に勝つ気概が必要です。痛いのがイヤなら、負け犬の如く、犬小屋に籠もって、わんわんきゃんきゃんと神経質に泣きわめくしかありません。
自分の傷の手当ては、相手に打ち勝ってからにすべきです。それが出来ないのは……自分に勝たずに人に勝とうとするもの。自分に負けながら、人に勝とうとするのはナンセンスです。
……今回は、どうナンセンスなのかをお話ししたい。
苦しい。負けたくないが苦しさに耐え難い。苦しみに耐えて勝つのでもなく、苦しみに耐えかねて負けるのでもなく……負けるのも苦しいのもイヤだ!!
こういう人がどういう行動を取るのか……大抵は自分の味方に八つ当たりをするもの。ねえ、そんなことをしたら自分の味方を減らすだけとは思いませんか?
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苦境に陥るのは、自分が未熟だから。そして、自分を守るものが弱いから。――駄々をこねても問題は解決しないし、泣いても喚いてもどうにもならない。出来るのは苦しみに耐えて死にものぐるいに努力するか――泣いて諦めるかだけ。あえていえば、今回は泣いて諦めても、それが自業からくるなら、次々に同じような苦しみに襲われるということ。
これは信仰の問題でも、心霊的な問題でもないのです。
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じゃあ救い/希望がないのかって?
いや、問題は別な所にあります。
その希望はあなたを助けるのか、それともあなたの苦しみを増すのか?
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行いが正しいかどうかで、苦しみが決まるわけではない。何も為さなければ何も得られず、多くを為せば反動も大きい。すなわち、勉める人ほど大きな苦しみを得る。しかし、人には好むものと好まざるものがあるのと同様、耐えやすいものと耐えがたいものがあるのが自然の理。
気がつけば、弱点のある所に澱みのごとき、災難が集まるのは、物事の流れを水にたとえるとわかりやすい。すなわち、何の障りもなければ水は蕩々と流れ、障りがあれば、その後ろに渦が巻くのが流れなのである。
神仏……すなわち、情ある力が、汝らの不幸・災難を、魂を磨く良い題材と喜んでいるわけではない。何となれば、それは自然の理が生み出す一つの現象であり、一つの難が、何十もの苦しみを舞い上がらせるという働きを持つがゆえ。
人の苦しみが、一つの罪に一つの苦しみだけなら、なんとわかりやすく、耐えやすい試練なのであろうか。だが、人の行く道は、大げさで判りにくく耐え難い。
信仰は節理を知る為の手段の筈が、苦しみに耐える為の手段に落ちぶれている。これでは人が救われようはずもない。
痛みから学ぶのは難しい。大変に難しいのだ。だが、諦めては苦しみて何も得られず、その困難な道は誰が仕組んだのでもなく、ただ眼前にあるだけ。すなわち、あなたが選んだ道なのだ。
仮にあなたが救われるとせよ……あなたが選んだ道だ、あなたが犠牲を免れる道はない。それがあると思った時、あなたは出口のない迷宮に迷い込むのである。傷つくべき因縁は傷無くして出られない。ただ、傷を少なくする可能性があるだけなのだ。