悩みに捕まる
05年 11月 20日
元来日本語は主語が曖昧な言語だ。だが、主語を言わないのと、主語を知らないのとは違う。いや大きく違う。……そして、深い悩みの持ち主は、大抵の場合、主語の無いまま疑問を抱く。
主語を言わないなら問えばいい。では、主語を知らずにいるならどうすればいいのだろう?
疑問が不完全であるなら回答のしようもないが、不完全な疑問を思い悩んでどうなるというのだろう?……解けないと悩むその前に、適切な設問をしなければなるまい。
と、いうより真に自分が抱いた疑問であるなら、その主語を知らぬはずがない。つまり不完全な疑問とは一体誰の疑問なのであろう?
主語無き疑問を抱くのは主体性が欠けているからだ。これを一般論として扱うなら、他(主に親)から矛盾を強いられて人生を歩み、他の矛盾が自分の人生の矛盾になり、結局、表面的な問題だけを延々と悩んでいるのだろう。
……疑問が不完全であろうと、それを察して答えることを霊媒は期待されているかも知れない。だが、他者からの受売りの悩みとは、一体誰の悩みなのだろう? 親か? 祖父母か? 教師か? 友人か?……いや、果たして一人に絞り込めるのか? 「疑問」はあるが誰の疑問であるか分らない……そんな疑問を霊視するのは幽霊を捕まえるよりも矛盾した話だ。
・・・
道に迷うとは、道を見失うというより、自分の居場所が分らなくなるということだ。……同様に、主体性を失っているから主語のない疑問、解けるはずのない疑問に囚われるのだ。
つまり・・・問題の組み立て方が下手だから、答えが得られない。