我慢から生じるストレスの扱い方


我慢から生じるストレスの扱い方

2005年 10月 21日

Q 「中耳炎に罹り、治療を受けているのですがちっとも治りません。薬が合わないのでしょうか?」

……ストレスがひどくて治りが遅いようです。

Q 「確かに色々、問題は抱えていますが今のところは出来ることもなく静観するようにしています。」

……確かに、頭を切り換えようと努力しているのでしょう。しかし、あなたは、人に会話を遮られると、声が大きくなる人ですよね。つまり、こらえ・我慢するのにとても強いストレスを感じる人でしょう。

Q 「ではどうすればいいのでしょうか?」

……さあ? 面白いテーマなので廬氏に助言を求めてみましょう。

・・・・・・・

Q 「我慢から生じるストレスの扱い方」

 最初にいう。――治療の助けには成りがたい。相談者は職場で、気むずかしい、扱いが難しい人物と見なされている。むろん周囲の誤解や、一人に多くを背負わせる事への罪悪感もあろう。

 いずれにせよ、そこに想念の澱みが生じて気の巡りに悪影響を及ぼしている。実際、(想念の)影響を受けやすい(社内)人々は、詰らぬ慢性病の形で表われているだろう。仕事の忙しいときほど具合が悪くなる。つまりそういうことである。

 二つ目にいう。これは今後の修行の在り方である。

 まず、人は魂の器である。したがって、魂がより快適に働ける在り方こそが、人が目指すべき生活態度である。

 さて、この世は、そして、我が身さえも、一個の魂がままなるものではない。多くの魂、多くの意志がせめぎ合った結果が表われているのであって、ではその結果が誰の意志かというと判然としない。一部には我の意志が働き、他者の意志も反映されている。それが意志と結果の関連である。

 すると結果とは自分一人が思い詰めることで実現することではないし、して良いことでもない。確かに、自分の意のままになれば面白くもあるだろうが、誰かがワガママをすれば他が憤り、ムキになって改めようとするのも摂理の内である。…… 勝てば恨まれるのである。正しくとも勝てば恨まれるのである。

 これは一重に人の意志ばかりに当て嵌まることではない。人一人と思ってみても、実は、自分は多くの意志を背負っていたりする。守護霊・祖霊・背後霊といった霊的環境もあるが、観念的にいえば、親兄弟、配偶者や子供等の意志を担っていることもあるだろう。…… なかなか勝手は言えぬ。勝手を言うとあちらこちらに障害が表われるものである。

 そう、事を為す……為すというのは自分の責務のようでいて、実は違う。自分はただの焦点、多くの意志の焦点に過ぎないのである。それ故に多くの人に望まれてやったことが、また多くの人から反対・非難を受けることにも繋がる。

あなたは責任感が強い……だが、誰が本当に責任を持つべきなのか?

 自分は生かされている。生かされてこの仕事をしている。……もしもあなたが過ちを犯したとしたら、それは、あなたを生かし続けてきた者にも責任の一端はあるだろう。

 そう、あなたは自分の責務に対して信念を持っている。だが、その信念は果たして正しいものなのか?  真に「責任を持つべき者」それが見えないが為にあなたは信念で自分に責任を課しているのではないか? 責任感の強さから人の分まで、また、神仏の分まで責任を取ろうとしてはいないか?……「過ぎたるは及ばざるがごとし」、摂理に反してまで責任を取ろうとすれば、その無理のすべてがあなたのものとなるのは自然なことだ。

 あなたは罪を犯していない神仏の分まで責任を取ろうとしているのである。病気などで済むなら、何と摂理は寛大な事であろう? きっと、そんなあなたをかばっている者がいるに違いない。

・・・・・・・

 設問を間違えば、正しい答は得られぬ。ストレスの解消法が必要なのではない。無用なストレスを受けぬ方法が必要なのである。

 その上で考えるなら、責任感が強いが故に、あなたは、自分の思いのままに行おうとする。人の考えでは責任がとれぬからだ。

 だが、あなたの責任に関する信念は果たして正しいのか? そもそも責任の所在は信念で決めるべきものか? 違う。責任者を決めるべきはその仕事の流れである。

 あなたは自分の不運を不満に思っていよう。だが、あなたの責任感の強さは、罰当たり(悪業)的ですらある。にも関わらず、その程度の障害で済んでいることは私が見るに、よほど庇われているのだろうということだ。


八つ当たりでもするか?

2005年 10月 21日

 

 友人等との会話の中で、我慢から生じるストレスの扱い方についての話題が出た。車での移動中でメモをとれる環境ではなかったので後ほど霊査を取ると約束して話題を変えたのだが、その間、「藁人形でも作って八つ当たりしたらどう?」等という罰当たり的な発言もあった。当然の如く、私の霊耳に『品のない!』と、非難が飛び込んできたのだが、その時、ふっと、廬氏が微笑むのを感じた。

「皆は品がないというだろうけれど、廬氏ならきっと違う答が返ってくるよね。」と私は話した。……で、尋ねてみた。

 ただし念のために明記したい。ここで大切なのは廬氏の意見ではなく、廬氏のスタンスだ。下品な質問を下品だからしてはいけないといわない。疑問には真剣に応えようとする姿勢があるのだ。

・・・・・・・

 恨むなといわれて恨まずに済むなら容易い。だが人は恨みと無縁には生きられぬ。だからといって恨むことが良いとはいわぬ。何よりも大切なことは、恨みは相手よりも自分を傷つけることを知ることだ。

 技能は言葉で伝授出来ぬ――技能は言葉で伝授が出来ぬ。作ろうと思うものの試行錯誤が不可欠である。だが、いずれにせよ試して自分の胸が痛まぬとしたら、それは出来損ないの呪具である。なぜなら、人間関係において非のないものなど無く、どちらにも相応に非のあるものを、一方にのみ責任が及ぶ呪具があるとしたらそこにあるのは正義でなくてただのワガママだ。

 さて、ワガママをいうものは人を困らせるだけでなく、自分も困った立場に追いやるものだ。従って、呪具に効果がなくても、自分の非を忘れて相手ばかりを恨んでいれば、自分に禍が及ぶであろう。自分に禍が及ばぬのであれば、その恨みは非力なものであるのだろう。

 非力な恨みの持ち主が一体何が出来るのだろうか? 不平不満をいうことで、自分の未来を浪費するだけのことだ。

 恨みは何よりも自分を傷つける。その様な呪具が何の役に立つのか? 誰の役に立つのか?

 恨みに思うことがあれば、まず必要なのは呪具ではない。その恨みを手放すことである。そうすれば己は悪業を生まずに済む。また、人の悪業に流されずに済む。……わざわざ恨むのは、相手の悪業を肩代わりするようなものである。あなたが受け取らなければその悪業のすべては相手の元に返るのに。

 だが、その悪業を当てられても受け止めずにいるのは難しい。それは理性よりも反射の働きによるものだから。悪業の帰し方を言葉で伝授する事は出来ぬ。試行錯誤が不可欠である。

 呪具の作り方など教えようもないが、呪具などが必要とは私には思えぬ。…… 摂理があれば充分の筈だ。あとは試し、慣れることだ。


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