思慮が浅い
物心両面の豊かさ
将棋は、敵味方双方、駒の数も駒の種類も同じなら、番面の広さも同じです。唯一違うのは先手、後手があるだけです。条件はほとんど同じなのに、どうして実力に差があるのでしょうか?
知力の差ともいえますが、もっと大切なことが有ります。素人ほど、使いやすい駒ばかりを使い、多くの駒はまるで動かさずに勝負に臨むということです。活用されていない駒、いわゆる死兵が多いのですね。与えられた駒と盤面は同じであっても、活用の度合いが違うから、勝負に差が出るのです。人間と知性の器が、駒を制限すると言ってもよいでしょう。
さて、快楽主義者は道義を軽視しても物質的な豊かさを追いかけ、精神主義者は欲心を軽蔑して精神的な豊かさを追いかけます。このように極端に走る事は、古今東西の聖人達の戒める事であります。
真の道は中道にあり、精神性が全ての霊界から、わざわざ物質世界に生まれ出てきた事を知る(または信じる)心霊主義者は、両極端に走ることなく、全てを活用して、人生の目的を果たすべきです。
つまり、物質にせよ、精神にせよ、その豊かさに溺れず、豊かさの中で安穏とせず、物心両面の豊かさを人生に活用していくのです。
『不足があれば知恵で補い、補いきれなければ努力で補え』
物心両面の豊かさの追求が、物質世界での隠れた目的なのです。その努力の過程で良質な経験が数多く身に付きます。ですから欲心を否定する必要は全くありません。問題なのは欲心に支配されることなのです。物欲が勝っても、精神的な欲望が勝っても、物質世界の特質を活用しているとは言えなくなるのですから。
博打に身をゆだねる?
『へぼ将棋、王より飛車を可愛がり』
手段と目的を履き違える、人生のへぼ棋士が失うのは、勝ち負けではなく、人生なのです。人間は死んだら無? それでは博打、では、死後の世界が全てか? と問うなら狂信者以外は不安を抱いて当然です。なにしろ人間の知覚外にある世界なのですから。これも信じるのは博打と言えます。
ですから私がお勧めするのは、大勝ちではなく負けない方法の選択です。今を確かに生きる。後悔の無いように生きる。それが大切だと思います。実に当たり前のことですよね。
しかし、心霊を学ぶ多くの人に、この当たり前のことが出来ません。他人の意見は、どんなに親身な意見であっても参考であって答えとは呼べません。人の意に従って失敗したとき、恨みを抱くようではやはり主客転倒と言えます。必要なのは人の知恵を我が物にするのであって、誰かの指図に従うことではないのです。 そもそも、人を当てにして人生の困苦にぶつかろうなどと言うのは、自分の人生を生きているとは言えません。人の手駒になるために地上に生をうけたのでもないのです。
補足
死んだら無になると信じる人は、ただ浪費し、非難し、そして創造的なことは行なわない人です。創造的な仕事をする人は、生まれ出たことの喜びを知っていますし、物の価値に理解がおよぶものです。
創造的な仕事を行なう人は、インスピレーションを物質世界で表現する専門家でもあります。だから霊的な知識を理解しやすい人でもあります。しかし正しい価値判断の基準をもたなければ、人を感動させる力は持ち得ません。的確に人々をリードできるだけの高いインスピレーションを得られないからです。
そして、職業が創造的であっても、ただ浪費し、非難する人もいます。創造力を処世術で補おうとするからです。
2006-04-16