あなたに出来る事
災難を幸運に転じる人
あなたの苦しみを受け止めてくれる人は、人生において得難い友人となり得る人です。その人は高い霊性を持ち、災難を幸運に転じる力を持っているからです。
なぜか?
人生は霊性向上の場なのです。苦難から逃げる人には苦難が利子をもって追いかけてくるし、苦難を自らの霊性向上につなげる人なら、努力の配当を受けられるからなのです。何よりも苦難を乗り越えてきた人ならば、苦難を乗り越える方法を知っているのです。それがあなたの人生に生かせない筈がありません。
自ら苦難を乗り越える努力をした人以外に、人の優しさや気遣いの本当の価値など分かる筈もなく、達成感を知らない人が本当の幸せなど理解できないのです。不幸でないのが幸せ……そう思える人には、苦難を乗り越えた先にある、至福を理解する事など出来ないでしょう。
どうか忘れないで下さい。急な坂道は頂上への近道なのです。
今苦しみにあえぐあなたには、周囲の景色を見回すゆとりなど無いかもしれません。しかし、真摯に困苦と取り組むあなたは確実に頂上に近づいているのです。その事は困苦を一つ乗り越えた時に実感できる事でしょう。どうか忘れないで下さい。苦しんでいる事は不幸なのではありません。達成感を知らない事こそが不幸なのです。
いくら楽だからといって、下り坂ばかり歩んでいては絶対に山の頂に達することは無いのです。
本質的な優しさ
優しさとは人類が集団生活を続ける中で育ててきた特質なのです。ゆとりさえあるのなら人は誰でも優しくなれます。しかし、困苦にぶつかった時にも優しさを維持できる本質的な優しさを備えた人と、困苦に負ければ進んで優しさを放棄する、うわべだけの優しさを持つ人がいます。
優しさの価値は、その態度ではなく、深みにあります。
どんな浅ましい人間でも、自分に利益をもたらす相手には、優しさや気遣いを見せるのが当たり前です。しかし、いくら優しい人であっても、利益を違えれば優しさも気遣いも無くなるのもまた当たり前の事なのです。
自らの利益は自ら守る以外に誰が守ってくれるというのでしょうか。自分の利を追い求める者を誰が非難できましょうか。ただ確かなのは、うわべばかりの優しさの持ち主は、本当に辛い時に手助けどころか災厄をもたらすであろうということです。困苦を共にするには優しさだけではなく誠実さも大切な特質なのです。
友人や恋人に選ぶのに、本質的な優しさを持っているか、いないかという判断はとても重要になります。人生は山あり谷ありで、幸せな時もあれば、辛い時もあって当たり前なのです。幸せな時にどれほど楽しい相手でも、辛い時に頼りになる相手とは限りません。そして本当に友人や恋人に側にいてもらいたい時とは、あなたが一人でいると辛い時の筈です。
本質的な優しさを持たない人でもあなたに幸福感を与えてくれることもあります。しかし、あなたの不幸感を減じてくれる事はなく、むしろ、より増大させる人なのです。うわべの優しさは、人生の転機において、必ず不幸な方向にあなたを導きます。
さらに残念な事に、人には、痛みを他人に押し付けられない人と、むしろ進んで他人に押し付ける人の二種類いるのです。
あなたの人間観察力の評価は、悲しいことにあなたがとても苦しんでいる時に露になります。苦しい時に信頼する人から追い討ちをかけられたとしたら、あなたの人物評価は大間違いであったということなのです。
しかし、本質的な優しさを持たない人と巡り合い、友好や愛情を結ぶのは、ある意味一種の業(カルマ)とも呼べます。困難に対処する所を見れば一目瞭然ではありますが、特別な機会に巡り合わない限り、本質的な優しさを見抜くのはとても難しいからです。
本質的な優しさというのは、必ずしも手を差し伸べる優しさではないのです。転んだ子供を抱き起こすのも優しさですが、自ら立ち上がるのを見守るのも愛情なのです。時と場合に応じて適切な対処を取れるかどうかが、その人の霊性・智(知とは異なる)性・人間性を現していて、一辺倒の対処しか出来ないのなら、いくら優しくても未熟ということになります。
そして、友人や恋人に本質的な優しさを持っている人を選ぼうにも、本質的な優しさを持たない人には、本質的な優しさの意味を見抜く事が出来ませんし、心にゆとりのない人は、見守ってくれる人よりも、手を差し伸べてくれる相手を求めがちになります。それがより不幸を増大させる事になるとしても……結局、私たちの社会は、うわべばかりの優しさが横行して、優しさの真意を見失っているのです。
あなたは優しさを持ち合わせていますか?
それは自らが辛い時にも貫けるものですか?
言葉は取り繕えても結果は取り繕えないものです。あなたが辛い時、そこが正念場であることをお忘れなく。
仁者も身を守る
もちろん、あなたが人を傷付けようとするのなら、相手も自分の身を守ろうとするでしょう。そして、どんな時も暴力は肯定できませんし、すべきでもありません。そして暴力とは肉体的な暴力だけではなく、暴言や敵意、憎悪も含めてのことです。
苦しい時に、その苦しみから逃れようと、暴れて人を傷付ける事もあります。そのような時に自分の痛みに囚われていると、知らずに周囲の人々を苦しめている事を見失う事があります。苦しんでいる身からすると、この痛みを受け止めてもらいたいと思うのは当たり前の事に感じられるかもしれません。しかし、誰も好き好んで他人の悪意や暴言・暴力にさらされたいとは思いませんし、他人の困苦、魂の修行課題まで背負いたいとは思わないでしょう。
困った時はお互い様ですから、辛い時に手を貸し合うのは当然の事にも思えます。しかし、助けるのにも限度があるのです。自ら歩こうとしない者を助けてどうなるというのでしょうか。自分の荷物を背負い、相手の荷物も背負い、挙句、相手まで背負う……それは人助けではなく自殺行為ですよ。
外部からの援助を求めるのには、自らが助けられるべき価値がある事を行動によって示す必要があるのです。救われるべきは自助努力であって、怠惰ではないのです。その事を勘違いして、自らの怠惰を棚に上げ、相手の「偽りの優しさ」を非難するのならば、あなたは死んでもなお、本当の優しさを知らずにいる事になるでしょう。相手があなたに優しさを見せないのはあなたに問題があるからなのです。
あなたが人に対して「優しくない!」と非難する時、それは要するにあなたが相手に甘えていることを公言するようなものなのです。
茶碗を割るのは茶碗を洗う者
「茶碗を割るのは洗う者だ。洗いもしないのに、茶碗が割れたからといって大騒ぎするな」……と、かつて私の母は祖母から言われたそうです。
人が茶碗を割ったのなら、騒ぐ前にケガの無いように片付ける事が大切です。責任問題は片付けてからでも間に合いますし、まして茶碗を割った者が、割った事に反省がない事は希ですから、あえて周囲が騒ぎ立てる必要などありません。茶碗を割って反省の無いような人なら、必要なのは非難よりもむしろ付合い方です。価値観が違いすぎれば分かり合える事も無いのです。
気持ちの動転している人に片付けさせるとケガをしやすいから、こういう時に周囲の気配りが大切になります。悪意に対するのに正義が必要でも、失敗に対するのには寛大さを持ってすべきです。
そして人の努力に無責任な発言をするのは慎むべきです。野次馬はとかく群れやすいのですから。
その事から、あなたはなにを学べるでしょう?
人が災難に巻き込まれている時、どのような対応を取るかで人は三種類に分別できます。人の失敗から学べ、自らの向上に生かせる人と、自分で失敗してみないと分からない人、そして自分を含めて誰の失敗からも何も学べない人です。
この宇宙が神の作り給うたものならば、世の中に不要なものなどありはしません。あるのは使い道が分からないものだけです。あなたは事象からなにを学べるでしょう?
辛い時、あなたは何が学べますか?