自分を味方に
あなたは誰?
2000年
右手を挙げてみてください。あがりますか?
左手を挙げてみてください。あがりますか?
肉体は素直なものです。
他人なら、このようには動かせませんね。
辛いときには、胃が痛み、恥ずかしいときは赤面する。
本当に肉体は素直なものです。
でも自分が嫌いな人がいます。
自分が嫌いな人は、誰なら好きになれるのでしょうか?
いや、あなたの知っている誰よりも、
あなたに対して素直な……
そのあなたを嫌っているのはいったい誰なのです?
あなたは自分の良い所を知っていますか?
あなたは自分の悪い所を知っていますか?
自分を知らないままに、自分を嫌いになれるのでしょうか?
自分を知らない人が、他人を知ることが出来るのでしょうか?
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知りもしない他人をどうして、好きになれるのでしょうか?
そう、自分を知らない人は、愛の意味を知らない人です。
自分を知らないままに、人が好きになる、
人に愛されたいと願うのは、
自分のなすべき努力を人にゆだねようとする怠惰な心です。
それは、愛ではなくて、誤解と怠惰と不誠実です。
相手にも自分にも不誠実な行為です。
これでは自分も相手も不幸になります。
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自分の良い所を伸ばし、悪い所を減らそうとせずに、自分を好きにはなれません。その努力を怠って、「自分が嫌い」と言っていたら、誰があなたを好きになってくれるのでしょう。誰よりもあなたの事を知っているはずの、あなた自身、そんなあなたを嫌っているのは、いったい誰なのです?
確かに、人の姿は当たり前のように見えても、鏡でもなければ自分を見ることは容易ではありません。姿形は鏡に映せても、心を映す鏡を持っている人はまれですね。霊能者にだって、自分の心を映す鏡を持っている人はまれです。自分のことは霊視出来ないなんて、いっているのですから。山の姿が、山の中にいては見えないように、私たちの心も、自分の利害から離してみなくては、自分の本当の姿が見えないのです。
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さあ、自分の心を見つめてください。
あなたはいったい誰なのですか?
あなたは不幸ですか?
ある天気の良い、穏やかな日、
あなたは他人に煩わされること無く、
日当たりの良い場所で、昼寝をしています。
物質的な心配事も無く、心は穏やかです。
しかし、このような平穏な時は、長くは続きません。天気は変わるものですし、季節は巡るものです。物質的な財産は時と共に減るものですし、穏やかさは退屈に繋がります。外部の影響をまったく受けないというのは、理想的な人格というよりも怠惰な霊性といえましょう。
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悲しい時に泣き、辛い時に嘆き、不正に怒り、幸せな時に喜ぶ。
それは、当たり前の人間ではありませんか。
そして、当たり前の人生ではありませんか。
幸せも、不幸も、目の前にあるのではありません。それは遠い先にあります。目の前にあるのは、努力しながら、苦しみながら、悩みながら乗り越えていく障害です。そして、楽しみながら、笑いながら、歌いながら、踊りながら乗り越えていくべき人生の課題です。
本当の幸せは、その障害に取り組んだ先にあるのです。
本当の不幸は、その障害の迂回路に潜んでいるのです。
目前の障害に、不幸を感じた時、あなたはすでに真の不幸への第一歩を踏み出しているのです。
なぜ苦しむのでしょう?
目先の不幸を嘆く人は、真の不幸を知りません。目先の問題を取り除けば、幸せになったと信じられる幸福な人です。しかし、人生の帳尻は、必ず合うことになっています。取り除かれた問題とは、いずれ人生のどこかで再び取り組まねばならぬのです。
人生の諸問題をすべて解き終わるまで、
真の幸せはありえません。
人の助けで、または責任を回避することで回答を先送りにした人は、いずれ訪れるであろう再試験を恐れつづけなくてはなりません。
恐れは、人間を卑屈にします。
年老いても、卑屈な人間は惨めです。
人生の諸問題をあざけり、回答を拒む人もいます。
これは傲慢です。
年老いても傲慢な人は孤独です。
傲慢な人は、死んでも孤独です。
彼らには、死んで無になるか…霊界の存在を最後まで信じないか
彼らには、死んで地獄に落ちるか…努力を怠って高級霊界に行けるはずも無く
やはり、人生の帳尻は、必ず合うのです。
目先の不幸を嘆く人は、真の不幸を知りません。
不幸の真の原因を明らかにしなくては、真の解決を得られないのです。
目先の問題に囚われていると、真の幸せも得られません。
人生の帳尻は、必ず合うことになっています。
努力という、代償を惜しむと、結果としてより多くの不幸という形で帳尻を合わされることになるのです。
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あなたは幸せですか?
不幸だとしたら、誰があなたを苦しめているのでしょうか?
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人は往々、自分を不幸にするために努力します。なぜでしょう?